Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 士師記6章11~24節

聖書の黙想と適用 士師記6章11~24節(新共同訳 旧約pp.390-391)

(1) わたしがあなたと共にいる(11~16節)

 主なる神はギデオンをイスラエルを救う士師として立てられた。しかし、彼は、ミディアン人の襲撃を恐れて、「酒ぶねの中で小麦を打っていた」(11節)弱い農夫に過ぎなかった。また、彼は、自分のことを「マナセの中でも最も貧弱な」自分の一族において、「家族の中でいちばん年下の者」(15節)であると考えていた。
 ギデオンは「主なる神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかったのですか」(13節)と主の御使いに問うた。彼は、主なる神が自分達を「見放」(13節)されたから、このような苦難に直面していると考えていた。しかし、自分とイスラエルが主なる神を離れ、その「声に聞き従わ」(10節)ず、「主の目に悪とされることを行」(1節)っていることに気付いていなかった。主なる神がミディアン人を用いてイスラエルをご自分に立ち帰らせようとされていることに気付いていなかった。このような誤解は今日のキリスト者もしばしば陥るものである。
 しかし、主なる神が自分と共におられることを確信した時、イスラエルを救う士師として大胆に立ち上がることが出来た。「わたしがあなたと共にいる」(16節)。主なる神がギデオンに与えられたインマヌエルの約束が小さく臆病な者を「勇者」(12節)にした。

(2) 平和の主(17~24節)

 ギデオンは、主の御使いから「主はあなたと共におられます」(12節)という言葉を聞いても半信半疑で、それに対する「しるし」を求めた(17節)。主の御使いは、「手にしていた杖の先」(21節)でギデオンが「供え物」(18節)として差し出した肉と「酵母を入れないパン」(19節)に触れると、それらを焼き尽くした。そして、彼は主の御使いが消えるのを見た(21節)。
 その時、ギデオンは、自分が向かい合っていたのが人ではなく、「主の御使いであることを悟った」(22節)。「顔と顔を合わせて主の御使いを見てしま」(22節)ったので死ぬのではないかと恐れるギデオンに、主なる神は「安心せよ。恐れるな。あなたが死ぬことはない」と言われた(23節)。主なる神を直接見たわけではないからである。
 願い求めたしるしを与えられただけでなく、主なる神が共におられることを経験した時、ギデオンの疑いは晴れ、心に平和が臨んだ。彼は「主のための祭壇を築き、『平和の主』と名付けた」(24節)。私達も、主なる神に出会う時、畏敬の念を抱き、礼拝を献げること、信仰を告白することへと導かれる。