Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書15章1~9節

聖書の黙想と適用 イザヤ書15章1~9節(新共同訳 旧約pp.1084-1085)

(1) モアブの破滅(1~4節)

 アブラハムの甥ロトの子孫である「モアブについての託宣」(1節)がイザヤに臨んだ。バビロンの場合とは異なり、モアブに対する嘲りや風刺は全く見られない。モアブの民の苦しみが、イスラエルの民の目にも耐え難いほど酷いものだったからだろう。
 モアブの主要都市である「アル」と「キル」が「一夜のうちに」滅びる(1節)。これによってモアブの高慢は一瞬にして砕かれる。モアブの民は、「聖なる高台に上っ」て「泣き叫」び、「髪をそり上げ、ひげをそり落とす」(2節)。「屋上でも広場でも」泣き叫ぶ声が止まず、人々は「粗布をまと」う(3節)。「モアブの武装した勇士」でさえ、戦意を喪失し、「その心はおのの」き、「悲鳴をあげ」る(4節)。
 主なる神は、個人だけでなく、一つの国の存亡にも干渉される。主なる神はこの世の全ての国の興亡盛衰を導かれる方である。

(2) モアブの難民に獅子を送る主なる神(5~9節)

 イザヤは異邦の民であるモアブをとても哀れに思った(5節)。彼らが受ける主なる神の裁きがそれほど恐ろしく残酷なものだったからである。
 町を悉く破壊され、モアブの民は生き残るために軍隊の力が及ばない場所へと逃げようとする。しかし、水源地である「ニムリムの水」も「干上がり/草は枯れ、青草は尽き/緑はなくな」(6節)っている。そのため、「モアブの全域」(8節)において「絶望の叫び」(5節)が響き渡る。「ディモンの水は血に染まる」(9節)という言葉は、殺された人の多さを表している。
 しかし、モアブに対する主なる神の裁きはここで終わらない。主なる神は生き残った「モアブの難民」を滅ぼそうと「獅子を送」られる(9節)。私達は、モアブに対する主なる神の裁きを通して、悪者を憐れまず、最後まで裁かれる主なる神のご性質を見ることが出来る。