Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書16章1~14節

聖書の黙想と適用 イザヤ書16章1~14節(新共同訳 旧約pp.1085-1086)

(1) モアブの追われている者に対する憐れみ(1~5節)

 イザヤはモアブの「地を治める者」に、かつてイスラエルに対して行っていたように(列王記下3章4節)、「使者を立て、貢ぎ物の羊を送れ」(1節)と語った。
 一方、イザヤはイスラエルに、「巣を追われ、さまよう鳥のよう」(2節)になるモアブの避難民に対して憐れみを注ぐよう求めた。具体的には、それは「モアブの追われている者」を「破壊する者から隠」すということであった(4節)。
「地上から虐げる者」が「うせ」、「破壊する者」が「滅び」、「踏みにじる者」が「絶える」時、「ダビデの幕屋に王座が慈しみをもって立てられ」る。そして、その王座に「治める者」が「座す」。彼は「まこと」と「公平」、「正義」をもって統治する(9章6節、11章4~5節)。これが救いの御業の目標でもある。

(2) モアブの傲慢(6~14節)

 モアブは、ぶどうなどの農産物が豊かだったため(8節)、「甚だしく高ぶり、誇り/傲慢で驕っていた」(6節)。「かつて、その若枝は諸国の支配者たちを押さえ/ヤゼルに達し、荒れ野にはびこり/つるは広がって、海を越えた」(8節)という言葉は、モアブの威勢を強調している。
 しかし、モアブはその高ぶりの故に「泣き叫」(7節)ぶようになる。国々が「鬨の声」と共にモアブに「襲いかか」(9節)るからである。その結果、「ぶどう園で喜びの叫びをあげる者も/酒ぶねでぶどうを踏む者もいなくな」(10節)る。彼らは、何度も「聖なる高台にもうで」、自らの神に「祈」るが、「何の役にも立た」ず(12節)、主なる神の裁きを回避することは出来ない(12節)。「三年たてば、多くの民を持つモアブの栄光は必ず終わ」(14節)ると主なる神は言われた。
「破滅に先立つのは心の驕り」(箴言18章12節)とソロモンが警告したように、高ぶる民はいつか必ず酷い災いに遭う。高慢を捨てることの出来ない人には何も残らない。