Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書17章1~11節

聖書の黙想と適用 イザヤ書17章1~11節(新共同訳 旧約pp.1086-1087)

(1) ダマスコとエフライムの運命(1~6節)

 イザヤは、アラムの首都ダマスコが「都の面影を失い、瓦礫の山となる」(1節)という託宣を告げた。アラムと手を組んで、兄弟の関係にあるユダを攻めたエフライム(北イスラエル)も徐々に衰え(4節)、最終的には滅びる(3節)。「アラムに残るものは/イスラエルの人々の栄光のようになる」(3節)という主なる神の言葉は、アラムも北イスラエルと同様に衰えることを指している。
 イザヤは北イスラエルに対する主なる神の裁きを「摘み残りしかないのに/オリーブの木を打つようなもの」(6節)と喩えている。オリーブの実を摘んだ後、「梢の方に二つ三つの実」(6節)しか残っていないように、裁きの後、北イスラエルの残りの者はごく僅かである。これが、異邦の国と共に、兄弟であり神の民であるユダを打った北イスラエルの帰結である。

(2) 救い主である神を忘れ去るイスラエル(7~11節)

 主なる神の裁きは、主なる神との正しい関係を回復することにある。主なる神の裁きを受けた「その日」、イスラエルは「造り主を仰ぎ、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐ」ようになる(7節)。彼らは「自分の手が作り、自分の指が作った祭壇を仰ぐこと」も、「アシェラの柱や香炉台を見」ることもしなくなる(8節)。
 しかし、このような回復も束の間に過ぎない。「彼らの砦の町々は、イスラエルの人々によって見捨てられた木の枝や梢のように、捨てられて廃墟となる」(9節)とイザヤは預言する。彼らがすぐに「救い主である神を忘れ去り/砦と頼む岩を心に留め」(10節)なくなるからである。そのため、イスラエルが「園を造り、成長させ」、「種を蒔き、芽生えさせてみても」、「収穫は消えうせる」(11節)。
 人は誰を見て生きるかによって異なる結果を生む。主なる神を見上げるなら、聖くなる。しかし、主なる神の恵みを忘れるなら、回復の御業も続かない。この世が揺れ動く時、私達がなすべきことは、主なる神を人生の中心とし続けることである。この世が揺らいでいる時ほど、主なる神に更に近づかなければならない。揺るがない主なる神の内に留まるならば、この世に生きていても、平和と希望を得ることが出来る。