Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書19章1~15節

聖書の黙想と適用 イザヤ書19章1~15節(新共同訳 旧約pp.1088-1089)

(1) エジプトに対する審判(1~10節)

 この世の国々の栄枯盛衰を聖書の観点から見た時、国が栄えるのは主なる神が立てられるからであり、国が滅びるのは主なる神が裁かれるからである。そして、主なる神が国を裁かれるのは、彼らが傲慢になったためである。主なる神に依り頼まなくても自分の必要を自分で全て満たすことが出来ると考え、自分を誇示する思い上がりを、主なる神は深い罪悪と見なされる。
 エジプトは歴史の中で優れた政治家を多く輩出し、イスラエルの文化にも影響を及ぼしてきた。しかし、主なる神が「速い雲を駆ってエジプトに来られ」(1節)、彼らに対する裁きを行われる。これはエジプトが急速に衰退することを暗示している。「主の御前に、エジプトの偶像はよろめき/エジプト人の勇気は、全く失われる」(1節)とイザヤは預言する。
 具体的には、エジプトにおいて内乱が起こり、「人はその兄弟と、人はその隣人と/町は町と、国は国と戦う」(2節)ようになる。また、主なる神がエジプト人の「謀を乱す」ため、彼らは「偶像と死者の霊/口寄せと霊媒に指示を求める」ようになる(3節)。それに対し、主なる神はエジプトを「過酷な支配者」(4節)であるアッシリアの王の手に渡される。
 更に、主なる神の裁きは自然にも影響を及ぼしている。「海の水は涸れ」、エジプトの命の源であるナイルの「川の流れは尽きて干上がる」(5節)。そのため「漁師は嘆き、悲しむ」(8節)。漁師に限らず、エジプトの経済は破綻し、「雇われて働く者は皆、苦しむ」(10節)ことになる。このように、主なる神の怒りが臨む時、罪人は誰も生き残ることが出来ない。

(2) 愚かな謀を立てるエジプトの賢者(11~15節)

 どれほど立派な指導者であっても、主なる神が下される罰に対する解決策を見出すことは出来ない。「ツォアンの司たち」「ファラオの賢者、参議ら」は「わたしたちは賢者の子です/遠い昔の王たちの子孫です」と自らを誇った(11節)。しかし、ヨセフの時代に「エジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集め」ても、ファラオが見た夢を「解き明かすことができる者はいなかった」ように(創世記41章8節)、「万軍の主が、エジプトについて定められたこと」(12節)を彼らは知ることが出来なかった。
 エジプトにおいて「賢者」と仰がれていた「ツォアンの司たち」「メンフィスの司ら」(13節)は、「愚かな謀を立て」(11節)て、「エジプトをよろめかせ」(13節)るだけであった。何故なら、主なる神が「彼らの間に迷わす霊を注がれた」(14節)からである。エジプト人は、身分の如何にかかわらず(「頭であれ尾であれ」)、「だれも何もなしえ」ず、裁きを逃れることは出来なかった(15節)。