Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書20章1~6節

聖書の黙想と適用 イザヤ書20章1~6節(新共同訳 旧約p.1090)

(1) 裸、裸足で歩き回るイザヤ(1~2節)

 紀元前711年に「アッシリアの王サルゴンに派遣された将軍」が反アッシリア同盟の中心であったペリシテの「アシュドド」を攻めた(1節)。これはそれまで静かだったアッシリアが再びカナンの地を征服しようと動き出したことを意味した。ユダはアッシリアの侵略に対応するため、エジプトと同盟を結ぶか否かの選択を迫られた。
 それに先立って、イザヤは主なる神から「腰から粗布を取り去り、足から履物を脱いで歩け」(2節)という命令を受けた。これは後のエジプトの姿を表すものである(3~4節)。イザヤは「そのとおりにして、裸、はだしで歩き回った」(2節)。主なる神は特別な象徴によってご自分の御心を知らされる時がある。
 主なる神に命じられて、真理を宣べ伝え、証しする時、損や恥を被ることがある。悪口を言われたり、噂を立てられたり、孤立したり、逮捕されることさえある。或いは、私達の理性や常識を越えたことに私達が従うのは容易ではない。それでも、私達は「お言葉ですから」(ルカによる福音書5章5節)と言って、主なる神の御心に従わなければならない。私達は、真理を伝え、真理に従うことを通してこの世に打ち勝ち、この世に光を照らすことが出来る。

(2) エジプトとクシュ、そしてユダが被る恥(3~6節)

 イザヤは、主なる神の命令に従い、「エジプトとクシュに対するしるしと前兆として」、奴隷や戦争の捕虜のように「裸、はだしで三年間歩き回った」(3節)。彼は自らの行動をもって主なる神の御心を表した。
 イザヤの行動は、やがて「アッシリアの王」が「エジプトの捕虜とクシュの捕囚」を「若者も老人も、裸、はだしで」「引いて行く」ことのしるしであった(4節)。のみならず、その時ユダも「自分たちの望みをかけていたクシュのゆえに、誇りとしていたエジプトのゆえに、恐れと恥をこうむる」(5節)ことになる。ユダがアッシリアの圧迫から抜け出すために取った政治的・軍事的判断は全て無駄になる。
 私達が行くべき道は目には見えない。しかし、主なる神は真実であられる。信仰によって主なる神に頼る時、主なる神の言葉に従う時、主なる神が私達の道となり、助けとなって下さる。