Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書21章1~10節

聖書の黙想と適用 イザヤ書21章1~10節(新共同訳 旧約pp.1091-1092)

(1) バビロンの悲惨な末路(1~5節)

 イザヤは、主なる神がエラムに「上れ」と、メディアに「包囲せよ」と命令を下されるのを聞いた(2節)。「欺く者は欺き続け/荒らす者は荒らし続けている」(2節)という言葉は、バビロン(「海の荒れ野」(1節))と同盟を結んで、アッシリアに敵対したエラムとメディアが、今度はバビロンを裏切り、バビロンと敵対したことを意味している。エラムとメディアがバビロンを攻撃することによって、主なる神はバビロンに抑圧されていた国々の「呻きをすべて終わらせ」(2節)た。
 バビロンに下った災いが余りにも凄惨なものだったため、その状況を見たイザヤは「産婦の痛みのような痛みにとらえられた」。「驚き」と「恐れ」の余り(3節)、イザヤの「心は乱れ」、「おののき」によって彼は「打ちのめ」された(4節)。
 このような中、イザヤは「宴」で「飲み食いしていた」人々に、「立て、武将たちよ/盾に、油を塗れ」と戦争に備えるよう伝えた(5節)。周辺の国々を抑圧してきたバビロンの末路は主なる神の懲罰による滅亡であった。

(2) バビロン陥落の知らせ(6~10節)

 主なる神はイザヤに「さあ、見張りを立てよ。見るところを報告させよ」(6節)とお命じになった。その上で、その見張りがバビロンを滅ぼす「二頭立ての戦車」「ろばに乗る者、らくだに乗る者」を「見る」ことになると告げられた(7節)。
「見張り台」に「一日中立ち尽くし」ていた見張りは(8節)、やがて「二頭立ての戦車を駆る者」がやって来て、「倒れた、倒れた、バビロンが。神々の像はすべて砕かれ、地に落ちた」と叫ぶのを見聞きする(9節)。
 イザヤは、これまで「打たれ、踏みにじられ」てきたユダの民に、「イスラエルの神、万軍の主から」聞いたバビロンの陥落の知らせを告げた(10節)。バビロンが倒れたという叫びは、ユダの捕囚生活が遂に終わりを迎えたという喜びの知らせであった。また、神々の像が全て破壊されたことは、彼らが拝んでいた神々が人間の刻んだ偶像に過ぎず、主なる神の御前では無に等しいことを示すものであった。
 喜びは主なる神が私達に与えて下さるものである。主なる神が「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということ」(ローマの信徒への手紙8章28節)を知る時、私達は喜ぶことが出来る。