Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書22章1~14節

聖書の黙想と適用 イザヤ書22章1~14節(新共同訳 旧約pp.1092-1093)

(1) 激しく泣くイザヤ(1~4節)

 イザヤは国々に向けていた視線を戻し、エルサレムの裁きについての託宣を語る。エルサレムは、主なる神が造られた都であり(11節)、主なる神の保護の下にあった。こうした霊的な価値と地形的な特性の故に、エルサレムは「幻の谷」(1節)と呼ばれている。
「騒音に満たされ、どよめく都/喜びに浮かれた町よ」(2節)というのは、紀元前701年――ヒゼキヤ王の治世第14年――にセンナケリブの率いるアッシリア軍がユダに攻めて来た時(列王記下18章13節)、主なる神の介入によって彼らが退却した出来事を指すと思われる(同19章36節)。しかし、やがてバビロンの軍隊がユダを攻撃し、多くの町を蹂躙することになる。
 その時、ユダの「将校はすべて逃げ出し」、「弓を引くこともなく捕らえられ」(3節)、殺される(2節)。イザヤは、没落するユダの幻を見て、「激しく泣」き、「あえてわたしを慰めるな。娘なるわが民が滅びたのだ」と言った(4節)。主なる神の御前で嘆き悲しむことは信仰の否定ではなく、主なる神に対する心からの信頼の表明である。私達の嘆き悲しみを主なる神の御前に献げる時、主なる神は私達の涙を受けとめて下さる。

(2) エルサレムの罪(5~14節)

 エラムとキルの人々が「戦車と馬」をもってユダに襲いかかってきた時(6~7節)、エルサレムの人々は自分達を守るための手立てを講じた。具体的には「ダビデの町に破れの多いのを見て/下の池の水を集め」(9節)て「水溜めを造り」(11節)、有事の際の飲み水の供給に備えた。また、古い「家々を倒し」、その資材を利用して、「城壁の破れをふさごうとした」(10節)。
 しかし、エルサレムの人々はそうした対策が根本的な解決にはならないことを知らなかった。罪を悔い改め、「嘆くこと、泣くこと/髪をそり、粗布をまとうこと」(12節)こそが、主なる神が彼らに求めておられたことであった。にもかかわらず、彼らは主なる神に立ち帰らなかった(11節)。
 そればかりか、彼らは、戦争を前にして、「牛を殺し、羊を屠り/肉を食らい、酒を飲んで」騒ぎ、「食らえ、飲め、明日は死ぬのだから」と開き直った(13節)。そのようなエルサレムの人々に対し、主なる神は「お前たちが死ぬまで/この罪は決して赦されることがない」(14節)と宣告された。主なる神を忘れる高慢は、私達を罪へと、そして滅びへと導く。