Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書22章15~25節

聖書の黙想と適用 イザヤ書22章15~25節(新共同訳 旧約pp.1093-1094)

(1) シェブナの罷免(15~19節)

 シェブナは、ヒゼキヤ王の「家令」(15節)、「書記官」(37章2節)で、王の側近として権力の中枢にいた。しかし、彼はその地位を専ら自分を飾るために用いた。シェブナは民から取り立てた税をもって自分のために「高い所に墓を掘り/岩をえぐって住みかを造ろう」(16節)とした。また、彼はとても豪華な「馬車」に乗り回し、自分の権勢を「誇」った(18節)。
 主なる神はユダの「宮廷を支配しているシェブナのところへ」(15節)イザヤを遣わした。イザヤはシェブナに「見よ、主はお前を放り出される」(17節)と宣告した。シェブナは「その地位から追」われ、「その職務から退けられ」(19節)、「広大な地へ放り出され」(18節)、そこで死を迎えることになる。
 シェブナは目に見えるものに依り頼もうとする人間の典型である。彼は自分の利益のために共同体を顧みなかった。シェブナがその地位を追われ、予期せぬ死を迎えることになったように、主なる神は高慢で不忠実な人間を放ってはおかれない。

(2) エルヤキムの栄光とその限界(20~25節)

 シェブナが罷免された後、彼に「与えられていた支配権」(21節)は全て「ヒルキヤの子エルヤキム」(20節)の手に移る。エルヤキムはヒゼキヤ王の時代の「宮廷長」(37章2節)であった。エルヤキムはシェブナが着ていた「衣を着」、シェブナが締めていた「飾り帯を締め」る(21節)。そして、「エルサレムの住民とユダの家の父」(21節)のような存在となる。
 更に、主なる神はエルヤキムの「肩に、ダビデの家の鍵を置く」(22節)と言われた。エルヤキムは、王の信頼を得て、「彼が開けば、閉じる者はなく、彼が閉じれば、開く者はないであろう」(22節)と言われるほどに国政を取り仕切った。それ故、彼は、一族の誉れとなり、「父の家にとって栄光の座に着く」(23節)ことになった。
 しかし、「彼の父の家の栄光」(24節)には終わりがやって来る。エルヤキムの失脚の理由については記されていない。しかし、エルヤキムも罪と欠けのある人間である。主なる神はエルヤキムを「確かなところに打ち込み、かなめ」(23節)とされた。だが、ただの人間に過ぎない彼に人々が過剰な期待を寄せた時、その「かなめは抜け落ち」(25節)た。そして、「それに掛けられていた重荷は、壊され、落ち、断たれ」(25節)た。主なる神こそ私達が唯一依り頼むべき方である。「この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない」という預言は「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方」であられる御子イエス・キリストにおいて完全に成就する(ヨハネの黙示録3章7節)。