Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書25章1~12節

聖書の黙想と適用 イザヤ書25章1~12節(新共同訳 旧約pp.1097-1098)

(1) 神の驚くべき御業(1~8節)

 人間にとって最大の喜びは主なる神を崇め、ほめたたえることである。主なる神は、万物と国々の主であられ、「遠い昔からの揺るぎない真実をもって」「驚くべき計画を成就され」る。それ故、讃美と感謝を献げるに相応しい方である(1節)。
 この世は「弱い者」「苦難に遭う貧しい者」(4節)に希望を与えることが出来ない。しかし、主なる神はご自分に頼る人々の「砦」、「豪雨を逃れる避け所」、「暑さを避ける陰」(4節)となって下さる。そのことによって、「強い民も」主なる神を「敬い」、「暴虐な国々の都でも人々は」主なる神を「恐れる」(3節)ようになる。神の民を通して異邦の民も主なる神を知り、仕えるようになる。
 主なる神は、最後にご自分の民のためにシオンの山で「祝宴を開き」、「脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒」を「すべての民」に「供される」(6節)。そして、最後の敵である「死を永久に滅ぼしてくださる」(8節)。そのことによって、主は「すべての顔から」悲しみと嘆きの「涙をぬぐい/御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる」(8節)。このような御方を私達はほめたたえずにはいられない。

(2) モアブの滅亡(9~12節)

 主なる神を最後まで待ち望む者は救いを得る(9節)。主なる神の救いに望みを抱き、謙遜に待つ者に対し、主は必ず喜びと楽しみによって報いられる(10節)。イエス・キリストを主と信じる者に何か特徴があるとすれば、それはいかなる場合にも主を信頼することである。真の愛は忍耐して待ち望むことである。待ち望むことは成熟のための祝福であり、実である。
 一方、主なる神はご自分に敵対し、高慢になったモアブをその御手をもって低くされた。モアブは、「泳ぐ人が泳ごうとして手を広げるように」、自分で自分を救おうと「手を広げ」(11節)た。しかし、それは何の役にも立たなかった。彼らは、「わらが踏みつけられて堆肥の山にされるように」、「主の下に踏みにじられ」(10節)た。主なる神は、自分の力に依り頼み、高慢になった者を「打ち倒して地の塵に伏させ」(12節)、「その誇りを打ち倒される」(11節)方である。