Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 イザヤ書26章8~21節

聖書研究 イザヤ書26章8~21節(新共同訳 旧約pp.1099-1100)

(1) 神に従う者の行く道(8~19節)

 イザヤは、「神に従う者の行く道」(7節)について語った後、主なる神の裁きを切に求めている。彼は、主なる神を「待ち望み」、その「御名を呼び、たたえること」を「魂の願い」とした(8節)。主なる神の「裁きが地に行われる」ことによって、「世界に住む人々は正しさを学ぶ」ことが出来るからである(9節)。
 一方、「神に逆らう者は、憐れみを受けても/正しさを学ぶことがありません」(10節)とイザヤは言う。それに対し、イザヤは、彼らが「恥を受け」ること、「敵対する者に向けられる」主なる神の火が「彼らを焼き尽く」すことを願った(11節)。
 その上で、イザヤは「主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を成し遂げてくださるのはあなたです」(12節)と祈り、イスラエルに主なる神がお与えになる平和とその御業を仰いだ。
 イスラエルは、バビロンに捕囚として連れて行かれた後、そこから抜け出そうと、「出産のときが近づ」いた「妊婦」のように「もだえ苦しみ、叫」んだ(17節)。しかし、「それは風を産むようなものでした」(18節)とイザヤは告白する。イスラエルの「産みの苦しみ」(18節)は、「救いを国にもたらすこともでき」ない空しい身悶えに終わった。
 しかし、主なる神は、「死者が命を得」、「しかばねが立ち上が」るように、イスラエルを回復させられる(19節)。人間は自分の力では救いを得ることは出来ない。救いと回復はただ主なる神から来る。主なる神がご自分の民に注がれる恵みは尽きることがない。それ故、神の民は裁きの中で自分の罪と無力さを認め、主を待ち望んで切に祈らなければならない。

(2) 主の審判(20~21節)

 主の日に主なる神は「その御座を出て/地に住む者に、それぞれの罪を問われる」(21節)。そこで「神に逆らう者」(10節)の生き方は厳しい裁きとして現れ、「神に従う者」(7節)の生き方は祝福された救いとして現れる。
 その時、主なる神はご自分の民を憐れみ、「さあ、わが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ」(20節)と言われる。ノアが洪水の裁きを、ロトが火の裁きを、イスラエル出エジプトの直前に初子の死を免れたように、主なる神は救われる者に、裁きの時の避け所を予め知らせて下さる。
 それ故、神の民は困難に直面しても、主なる神に期待することが出来る。主なる神は、私達が平安な時にも苦しむ時にも、変わることなく真実な御方であられる。そして、何の意味もなく苦しみを与えたりはされない。主なる神が戒めの鞭をもって私達を打たれる時、私達は主の御前で自分を低くし、その戒めを甘んじて受けなければならない。挫折と苦痛が絶えない状況であっても、主なる神と繋がる望みの綱を放してはいけない。