Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書27章1~13節

聖書の黙想と適用 イザヤ書27章1~13節(新共同訳 旧約pp.1100-1102)

(1) 主のぶどう畑としての神の民(1~11節)

 主なる神の敵であるサタンは、救いの恵みを受けた神の民をあらゆる方法を用いて滅ぼそうとする。サタンは神の民に比べて強大に見える。しかし、主なる神は、時が来ると、ご自分に敵対するサタンの勢力を「厳しく、大きく、強い剣をもって」(1節)滅ぼされる。
 サタンを象徴する「曲がりくねる蛇レビヤタン」「海にいる竜」(1節)の滅亡は、神の民にとっては救いと回復の始まりである。ここで神の民は「見事なぶどう畑」(2節)に喩えられている。神の民は主なる神の保護の下にある。「主であるわたしはその番人。常に水を注ぎ/害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る」(3節)という表現から、ご自分の民を愛をもって見守り、育てられる主なる神の御心を知ることが出来る。イスラエルも、主なる神に拠り頼む時、「根を下ろし」、「芽を出し、花を咲かせ/地上をその実りで満たす」(6節)ことが出来る。
 一方、主なる神は、偶像礼拝をはじめとするイスラエルの罪を指摘し、彼らに懲らしめを与えられた。しかし、それもまた愛によるものである。主なる神が私達の人生に苦難を与えられる時、主なる神は私達が滅びることを望んでおられるわけではない。主なる神の懲らしめの目的は、ご自分の民を滅ぼすことではなく、ご自分の民が罪を悔い改めて、立ち返ることにある(7節、9節)。私達は苦難を悔い改めの機会として受けとめなければならない。「もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません」(ヘブライ人への手紙12章8節)。

(2) イスラエルの回復(12~13節)

 救いの目的は主なる神との関係の回復にある。主なる神がイスラエルの民を国々から集められる時、「アッシリアの地に失われて行った者も/エジプトの地に追いやられた者も」(13節)イスラエルに帰還する。「その日が来ると」、主なる神は実を収穫する農夫のように、イスラエルの民を「ひとりひとり拾い集められる」(12節)。
「大きな角笛が吹き鳴らされ」(13節)ることは、捕虜を約束の地へと集める主なる神のしるしである。この角笛は解放と自由を宣言する。そして、約束の地へと戻ったイスラエルは「聖なる山、エルサレムで主にひれ伏す」(13節)。主なる神を礼拝することが、神の民の究極的な目的であり、使命である。そして、選ばれた神の民が礼拝するために主なる神によって集められた共同体が教会である。