Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書29章1~12節

聖書の黙想と適用 イザヤ書29章1~12節(新共同訳 旧約pp.1104-1105)

(1) エルサレムの攻城と救い(1~8節)

「アリエル」(1節)はエルサレムを指す。主なる神の祝福を受けた都が敵に包囲され、言葉に出来ない悲惨な状況に変わる。しかし、「アリエルに群がって攻撃する国はすべて夢か夜の幻のようになる」(7節)と主なる神は言われる。この言葉は、紀元前701年――ヒゼキヤ王の治世第14年――にアッシリア軍がエルサレムを攻撃した時(列王記下18章13節)、主の御使いが現れ、彼らを瞬時に抹殺した出来事によって成就した(同19章35節)。
 主なる神はユダがご自分に頼らず、「折れかけの葦の杖」(同18章21節)のようなエジプトに頼ることがどれほど愚かなことであるかを悟るよう願われた。突然臨む主なる神の救いは悔い改めの機会でもある。今も主なる神は私達の不信仰を悟らせようと様々な出来事を与えられる。

(2) 目を閉ざされたイスラエル(9~12節)

 イスラエルの民は主なる神の救いを体験した後も立ち返らなかった。その結果、彼らの生活は混乱に陥る(9節)。主なる神が彼らに「深い眠りの霊を注ぎ」、「預言者の目を閉ざし」、主なる神の言葉を悟れないようにされたからである(10節)。主なる神の言葉を悟れなければ、目的もなく揺れ動く人生を生きるしかない。これは彼らの不信仰から始まった災いである。
「深い眠り」という表現は、当時のイスラエルの霊的状態をよく表している。主なる神の言葉は彼らにとって「封じられた書物の中の言葉」のようで、知恵のある者も無知な者も、主なる神の言葉を悟ることが出来ない(11~12節)。
 怠惰と高慢によって霊的無感覚に陥る時、私達は真理を見分けられなくなる。私達はいつも主なる神を畏れ、目を覚まして主なる神の言葉と恵みを慕い求める必要がある。イエス・キリストに依り頼む信仰によって主なる神の御前に謙り、神の民としての姿を回復していただこう。イエス・キリストの義により私達は力を得、新しく始めることが出来る。