Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書29章13~24節

聖書の黙想と適用 イザヤ書29章13~24節(新共同訳 旧約pp.1105-1106)

(1) 主なる神から離反するユダ(13~16節)

 主なる神はユダの民の見せかけの信仰を嫌われた。ユダの民は、口では主を敬いながら、心は主から「遠く離れて」いた。彼らは主なる神の言葉を「人間の戒め」として受け取っていた(13節)。そのため、外側と内側が大きく異なっていた。
 ユダが懲らしめを受けるもう一つの理由は、「主を避けて」(15節)、代わりにエジプトと同盟を結ぼうとする陰謀にあった。「賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される」(14節)と主なる神は言われる。彼らは差し迫る危機にいかに対処すべきか知ることが出来ない。
「造られた者」である人間が「造った者」である主なる神を無視したり、認めないのはとんでもないことである(16節)。主なる神は全ての被造物を治めておられる。この方に目を留めず、他のものに依り頼んで生きてはいないだろうか。「粘土」で造られた「陶器」に過ぎない私達は「陶工」である主なる神を信頼しなければならない(16節)。

(2) イスラエルの回復(17~24節)

 主なる神はご自分の民を打たれるが、「なおしばらくの時がたてば」(17節)再び包んで下さる。ユダは罪の故に主なる神から懲らしめを受けるが、主なる神の恵みによって再び回復する。
 その時、「暴虐な者はうせ、不遜な者は滅び/災いを待ち構える者は皆、断たれ」(20節)、イスラエルは再び平和になる。また、その日には「レバノンは再び園となり」(17節)、「耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉をすら聞き取」るようになり、「盲人」が「見えるようになる」(18節)。更に「苦しんでいた人々」「貧しい人々」が主なる神の故に「喜び躍る」(19節)。
アブラハムを贖われた主」(22節)は、こうしてご自分の民が「恥を受けること」のないようにされる(22節)。主なる神の「手の業を見」、その救いと御業を体験した彼らは、主なる神の御名を聖とし、主なる神を「畏るべきものとする」ようになる(23節)。主なる神を畏れることが知恵と祝福の始まりである。