Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 イザヤ書30章1~14節

聖書研究 イザヤ書30章1~14節(新共同訳 旧約pp.1106-1108)

(1) エジプトとの同盟(1~7節)

 主なる神はご自分に頼らず、他のものに頼る者を「災いだ、背く子らは」(1節)と責められる。ダマスコとサマリアを陥落させたアッシリアが、ユダを脅かしてきた時、ユダの民には主なる神よりも強大国を頼る方がよいと思われた(1~2節)。しかし、彼らがエジプトを頼る時、敗北と恥を受ける(3~7節)。
 イザヤはユダの民の不信と反逆を警告し、エジプトはまるで「つながれたラハブ」のようであると言った(7節)。エジプトは自分の勢力を誇り、ユダを助けると約束するが、「エジプトの助けは空しくはかない」(7節)。
 主なる神に頼らず、主なる神の御心を求めないことは罪である。この世の力や経済力に依り頼む時、主なる神の御前で「背く子」となる。私達が頼るべき対象は人間の生死の全てを握っておられる主なる神だけである。

(2) 背信の記録(8~14節)

 主なる神は語り、行われる方である。主なる神はイザヤに「今、行って、このことを彼らの前で板に書き、書に記せ。それを後の日のため、永遠の証しとせよ」(8節)と言われた。記録の内容は、「反逆の民であり/偽りの子ら、主の教えを聞こうとしない子ら」であったユダに主なる神が裁きを下されるという警告であった。
 イザヤの叱責に、ユダの民は「真実を我々に預言するな」(10節)と言い、「我々の前でイスラエルの聖なる方について語ることをやめよ」(11節)と求めた。人は自分の酷い現実に向き合うことを嫌う。罪人は真実を聞くことよりも、偽りでもいいから自分の気に入ることを話してくれることを好む。
 結局、ユダの民は主なる神の言葉を拒み、主なる神に頼らず、「抑制と不正に頼り、それを支えとし」(12節)た。そのため、主なる神は「壺を砕」く「陶器師」のように、彼らを裁くと言われた(14節)。
 悪魔は私達が破局の一歩手前に立っていても平安と希望を叫ぶ。それに対し、主なる神は私達に罪を悔い改めさせ、御前に謙らせ、その後に平安と希望を語られる。今この世で語られている平安と希望は嵐の前だろうか。それとも後だろうか。耳に心地良い言葉は結局滅びへの近道になる。一方、耳に痛い言葉であっても、それに従って自分の生活を変化させるなら、主なる神は私達に平安と希望を与えて下さる。真の平安と希望は心からの悔い改めの後に来るということを忘れてはいけない。