Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書32章1~8節

聖書の黙想と適用 イザヤ書32章1~8節(新共同訳 旧約p.1111)

(1) 正しい王の支配(1~4節)

 イスラエルに「正義」と「公平」をもって統治する王が現れる(1節)。この王は、一時的にはヒゼキヤを、究極的にはメシアを指している。彼は「風を遮り、雨を避ける所のように」人々を守る。また、「水のない地を流れる水路のように」人々に命を与える。そして、「乾ききった地の大きな岩陰のように」人々に安息を与える(2節)。
 この王による統治は、外的な環境の変化だけでなく、民の心も新しくする。霊的に無感覚だった心が変化し、「見る者の目は曇らされず/聞く者の耳は良く聞き分ける」(3節)ようになる。また、「軽率な心も」主なる神の御心を「知ることを学び」、真理を明確に語るようになる(4節)。
 義なる王イエス・キリストは既に来られた。にもかかわらず、私達は依然としてこの方のご支配を拒否しようとする。この方のご支配に服する者は、正義と公平を追い求め、この方の言葉に聴き従うようになる。

(2) 愚かな者やならず者に対する裁き(5~8節)

 メシアの統治には裁きと救いという両面性がある。正しい王による統治が実現した時、「愚かな者」「ならず者」が「高貴な人」「貴い人」と言われることもなくなる(5節)。
 イザヤが言う「愚かな者」とは、「神を無視し、主について迷わすことを語」る者、「愚かなことを語り/その心は災いをたくらむ」者、そして「飢えている者をむなしく去らせ/渇いている者の水を奪う」(6節)者である。また、「ならず者」とは、主なる神の御心に逆らい、「謀をめぐら」す者、「貧しい者が正当な申し立てをしても/乏しい者を偽りの言葉で破滅に落とす者」を指している(7節)。彼らは裁きを受けることになる。
 それに対し、主なる神を畏れる敬虔な者を、イザヤは「高貴な人」と呼んでいる。そのような人は「高貴なことをはかり/高貴なことを擁護する」(8節)。「高貴な人」は主なる神に認められ、患難から救われる。
 この世の嵐は激しい。その嵐につかまる時、私達は主なる神の御力とこの方の御心を疑うようになる。嵐の中を通るためには、主なる神の言葉をしっかり掴んでいなければならない。主なる神は、私達にどのような危機が襲っても、正しい道へと導いて下さる。私達は、心がいつも主なる神に向かっているか、主なる神を信頼しているかを日々問われている。