Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書32章9~20節

聖書の黙想と適用 イザヤ書32章9~20節(新共同訳 旧約pp.1111-1112)

(1) 憂いなき女たち(9~14節)

 イザヤはエルサレムの女に向かって、これから起こる災いを宣言した。彼女達の恥ずべき生活と悪い行いが、主なる神の怒りを招いたからである。
 エルサレムの女は、主なる神の裁きの警告を繰り返し受けても、一向に悔い改めようとはしなかった。彼女達は「美しい畑、実り豊かであったぶどうの木」(12節)からの豊かな収穫を期待し、喜びに酔っていた(13節)。イザヤはそのような彼女達を「憂いなき女たち」(9節)、「安んじている女たち」(10節)と呼んでいる。エルサレムの女は霊的な無知と無関心に陥っていた。
 しかし、「ぶどうの収穫が無に帰し/取り入れの時が来」ず、彼女達が「おのの」き、「慌てふためく」日がやって来る(10~11節)。その日には畑は「茨といらくさに覆われ」(13節)、「宮殿は捨てられ/町のにぎわいはうせ」(14節)る。主なる神の裁きには苦しみと貧しさが伴う。
 今の楽しみのためだけに生きている人には裁きが待っている。それに対し、今の苦しみは後の日の喜びとは比べものにならないことを知っている人は、日々主なる神の御心の通りに生きようとする。

(2) 神の霊の働き(15~20節)

 主なる神は、懲らしめの期間が過ぎれば、「霊」を「高い天から注」(15節)ぐことを約束して下さった。聖霊は命を創造する霊であり、「荒れ野」を「園」に変えられる(15節)。そして、「荒れ野に公正が宿り/園に正義が住まう」(16節)ようになる。更に、正義を実現した結果として「平和」と「とこしえに安らかな信頼」が臨む(17節)。神の民は「平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所」で平安を与えられる(18節)。
 このように、メシアの王国は、聖霊が臨むことによって民の生活が内的にも外的にも完全に変化し、あらゆる祝福を味わう国である。これは、ユダの民がバビロン捕囚から帰還するという歴史的な出来事を超えて、究極的にはイエス・キリストの再臨と共に完成する神の国における祝福された生活を指している。
 聖霊は私達の内を強め、イエス・キリストの愛の中で生きるよう導かれる。この真理を悟る時、私達は主なる神に聖霊を送って下さるよう祈り求めるようになる。聖霊は私達が主なる神の言葉を守ることが出来るように助け、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして」(ルカによる福音書10章27節)主を愛することが出来るように導かれる。私達の内に聖霊が宿る時、主を愛して生きることがどれほど大きな栄光であり、祝福であるかを悟るようになる。聖霊に満たされた人は、現実が辛く苦しくても、真の望みの中で喜びと感謝を失わない。