Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書33章17~24節

聖書の黙想と適用 イザヤ書33章17~24節(新共同訳 旧約pp.1113-1114)

(1) 過去のものとなる苦難(17~19節)

 苦難は栄光へと到る道である。救いが臨む時、主なる神に従ってきた人は、「麗しく装った王」(17節)であられる主を仰ぐことになる。そして、これまでの苦しみが過去のものとなる時が訪れる(18節)。
「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(ローマの信徒への手紙8章18節)。イエス・キリストも、或る期間、人として苦しみを受けられた。しかし、サタンの力に勝利し、栄光に満ちた姿へと変えられた。

(2) 主は我らの王(20~24節)

 主なる神が共にいて下さる時、エルサレムは、いかなる攻撃があろうとも、「安らかな住まい」、「移されることのない天幕」である(20節)。
 主なる神は「我らを正しく裁かれる方」である。また、「我らに法を与えられる方」であり、「我らの王となって、我らを救われる」(22節)。この方は、正義と公平をもって世界を統治し、ご自分の義を立証される。にもかかわらず、アッシリアは主なる神に服従しようとはしなかった。そのため、進むべき方向のない船のように最終的に滅びてしまう(23節)。
 私達の安全は主なる神の御手の中にのみある。主なる神は私達に足りないものを豊かに満たして下さる。周りの状況と人々がひどい悪に満ちていたとしても、主なる神が私達を裁かれるので、勇気を持たなければならない。そして、どのような状況にあっても、望みを失ってはいけない。ただ主なる神だけを信頼しよう。