Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書35章1~10節

聖書の黙想と適用 イザヤ書35章1~10節(新共同訳 旧約pp.1116-1117)

(1) 栄光の回復(1~7節)

 エドムに対する審判とは対照的に、イザヤは主なる神がご自分の民に対してなされる救いと回復について語った。それは、捕囚の後、イスラエルに与えられる希望のある未来を預言するものであった。
 イザヤは「心おののく人々」に「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を」(4節)と呼びかけた。主なる神が来られ、「敵を打ち、悪に報い」、彼らを「救われる」からである(4節)。
 その時、「見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開」(5節)き、「歩けなかった人が鹿のように躍り上が」り、「口の利けなかった人が喜び歌う」(6節)という驚くべき奇蹟が起こる。更に、「荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れ」(6節)、「乾いた地は水の湧くところとなる」(7節)。
 主なる神が共にいて下さることで、私達は、このように驚くべき変化を経験し、「主の栄光と我らの神の輝きを見る」(2節)ことが出来る。主なる神の愛と命が入って来る時、「荒れ野」や「砂漠」に「野ばらの花」が咲くように(1節)、私達は、悲惨な現実から抜け出し、変わることが出来る。主なる神が共にいて下さる人生は幸いである。

(2) 主に贖われた人々(8~10節)

 主なる神の救いは私達に「喜びと楽しみ」(10節)を与える。「主に贖われた人々は帰って来る」(10節)という預言は、歴史的には、ユダの人々がバビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還することを、究極的には私達が罪から解放されて救われることを意味する。
 その時、「主御自身がその民に先立って歩まれ」(8節)、「解き放たれた人々」(9節)が「喜び歌いつつシオンに帰り着く」(10節)。その「聖なる道」に「汚れた者」や「愚か者」が「迷い入る」ことや、「獅子」などの「獣」が彼らに「襲いかかること」はない(8~9節)。
 主なる神の救いは確定された。そして、救われた民は主なる神にあって「とこしえの喜び」(10節)を与えられた。今の生活がどれほど苦しく、辛くても、主なる神の救いと回復に期待する時、「嘆きと悲しみは逃げ去」(10節)っていく。神の民は、過去、現在、未来の全ての時間において、救いの喜びを味わうことが出来る。