Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書36章1~12節

聖書の黙想と適用 イザヤ書36章1~12節(新共同訳 旧約p.1117)

(1) センナケリブの攻撃(1~10節)

「ヒゼキヤ王の治世第十四年に、アッシリアの王センナケリブが攻め上」(1節)ってきた。センナケリブエルサレムに遣わしたラブ・シャケの言葉から、私達は悪魔の策略を知ることが出来る。
 まず、ラブ・シャケは、ヒゼキヤが「我々は我々の神、主に依り頼む」(7節)と言ったけれども、主なる神の助けを受けることは出来ないと述べた。その理由として、ヒゼキヤがエルサレムの神殿だけで礼拝するようにし、「聖なる高台と祭壇を取り除いた」ことを挙げている(7節、列王記下18章4節)。このようなラブ・シャケの主張は根拠のないものである。ヒゼキヤの改革は、偶像礼拝をなくし、信仰の純粋性を確立するためのものであり、「主の目にかなう正しいこと」(列王記下18章3節)であった。
 次に、ラブ・シャケは、「わたしは今、主とかかわりなくこの地を滅ぼしに来たのだろうか。主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになったのだ」(10節)と述べ、アッシリアがユダを侵略することは主なる神の御心であると主張した。
 神の民は、恐れと疑いによって主なる神への信仰を失わせようとする悪魔の策略を見抜かなければならない。私達は悪魔を甘く見てはいけないが、過度に恐れる必要もない。イエス・キリストは主なる神の言葉によって悪魔の試みに打ち勝たれた(マタイによる福音書4章1~11節)。世が私達の弱みを突いて嘲り、攻撃する時、イエス・キリストの御名によって大胆に立ち向かおう。

(2) エルヤキムとシェブナとヨアの誤った対応(11~12節)

ヒルキヤの子である宮廷長エルヤキム、書記官シェブナ、アサフの子である補佐官ヨア」(3節)といったヒゼキヤの家臣は、ラブ・シャケに「わたしどもにユダの言葉で話さないでください」(11節)と願った。ラブ・シャケの言葉を「城壁の上にいる民が聞いて」(11節)、彼らが動揺することを恐れたからである。
 しかし、ラブ・シャケは、ヒゼキヤの家臣の頼みを一蹴し(12節)、大声で叫び続けた(13節)。彼は、ヒゼキヤの家臣もユダの民も「自分の糞尿を飲み食いするようになる」(12節)ほど、酷い飢えに苦しむことになると脅迫した。結局、エルヤキムとシェブナとヨアの要請は、自分達の弱点を晒け出すことになり、却ってラブ・シャケの気勢を高めることになってしまった。人間に依存する時、私達は人間の奴隷となり、状況に振り回され、心配と恐れが絶えなくなる。