Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書36章13~22節

聖書の黙想と適用 イザヤ書36章13~22節(新共同訳 旧約pp.1117-1118)

(1) ユダの人々を動揺させようとするラブ・シャケ(13~17節)

 ラブ・シャケは、ユダの人々に伝わるように「ユダの言葉で大声で」叫び、「アッシリアの王」センナケリブの言葉を伝えた(13節)。それは「ヒゼキヤにだまされるな。彼はお前たちを救い出すことはできない」(14節)というものであった。ラブ・シャケはヒゼキヤに対するユダの人々の信頼を失墜させようとした。
 それに対し、ヒゼキヤは「主は必ず我々を救い出してくださる。決してこの都がアッシリアの王の手に渡されることはない」と言って、ユダの人々を「主に依り頼ませよう」とした(15節)。しかし、ラブ・シャケは「ヒゼキヤの言うことを聞くな」と述べた上で、アッシリアに降伏するならば、「自分のぶどうといちじくの実を食べ、自分の井戸の水を飲むことができる」とユダの人々を誘惑した(16節)。
 主なる神に対する信仰を説くヒゼキヤの言葉を疑うことは、主なる神に対する不信へと繋がる。悪魔はいつも全てを保証してくれるかのように語る。しかし、それは偽りに過ぎない。神の民は困難な時ほど主なる神への信仰を堅固にしなければならない。

(2) 沈黙するユダの人々(18~22節)

 ラブ・シャケは「ヒゼキヤが、『主は我々を救い出してくださる』と言っても、惑わされるな」(18節)と続けて叫んだ。
 その際、ラブ・シャケは、「ハマトやアルパドの神々」や「セファルワイムの神々」など(19節)、「諸国の神々」がいずれも「自分の地をアッシリア王の手から救い出すことができ」なかったことに触れている(18節)。それ故、ヒゼキヤが「我々を救い出してくださる」と信じる主なる神も、エルサレムアッシリア王の手から救い出すことは出来ないとラブ・シャケは主張した(20節)。当時強国アッシリアの侵略を退けた民族はいなかった。だから、ラブ・シャケの言葉は強い説得力を持ってユダの人々に迫って来たに違いない。
 しかし、ラブ・シャケの懐柔策に対し、ユダの人々は「押し黙ってひと言も答えなかった」(21節)。相手と同じ土俵に立って立ち向かうのではなく、沈黙することが最善の方策である場合がある。沈黙は私達の目を主なる神に向けさせ、この方に依り頼む機会を与えてくれる。私達は立ち向かうべき時と沈黙すべき時を見分けなければならない。
 敵との激しい戦いの中で今にも倒れそうな時、私達がなすべきことは、イエス・キリストの御名を呼び、イエス・キリストに依り頼むことである。自分が無力で、絶望的な存在であることを認め、主の御前に出よう。主なる神が私達を見ておられること、私達を救い、守る準備をして下さっていることを信頼しよう。