Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書37章1~13節

聖書の黙想と適用 イザヤ書37章1~13節(新共同訳 旧約pp.1118-1119)

(1) 恐れてはならない(1~7節)

 ヒゼキヤ王は、ラブ・シャケの言葉を伝え聞くと、「衣を裂き、粗布を身にまとって主の神殿に行った」(1節)。彼は、主なる神の御前に出て、主なる神の助けを祈り求めた。主なる神だけが「地上のすべての王国の神」であり、「天と地をお造りになった方」であると信じていたからである(16節、列王記下19章15節)。これは主なる神が願われる問題解決の方法である。そして、主なる神は「苦難の時の砦の党」となり、「虐げられている人」の求めに答えて下さる(詩編9編10節)。
 また、ヒゼキヤは家臣をイザヤのもとに遣わし(2節)、主なる神の御心を尋ねた。その時、イザヤは、ラブ・シャケが主なる神を「冒瀆する言葉を聞いても、恐れてはいけない」(6節)という主なる神の言葉を伝えた。そして、アッシリアセンナケリブが「うわさを聞いて自分の国に地に引き返」し、「その地で剣にかけられて倒される」ことを告げた(7節)。イザヤの預言通り、アッシリアの軍隊は主の御使いによって抹殺され、ニネベに入ったセンナケリブは殺された(列王記下19章35~37節)。
 主なる神に献げる祈りは空しいものではない。私達が祈る時、主なる神はそれに応答して下さる。

(2) 主なる神を侮るセンナケリブ(8~13節)

 アッシリアセンナケリブは、「リブナを攻撃して」(8節)いたが、「クシュの王ティルハカ」が自分達と戦うために「軍を進めている」という「知らせを受けた」(9節)。これを聞いて、彼はユダから暫く撤収した。
 その一方で、センナケリブは、「ヒゼキヤに使者を遣わし」(9節)、再びその信仰を弱めようとした。センナケリブは主なる神がエルサレムアッシリアの手から救われるなどと思ってはいけないともう一度語った(10節)。その際、周辺の「すべての国々を滅ぼし去った」アッシリアの圧倒的な力を強調した(11節)。
 当時の人々は、民族間、国家間の戦いを神々の戦いとして認識していた。そのため、アッシリアが周辺の国々を打ち滅ぼしたことは、「これらの諸国の神々」(12節)に対して勝利したことを意味した。センナケリブは、ヒゼキヤにも、無力な神に依り頼むのを止めて、速やかに降伏するよう迫った(10節)。センナケリブは主なる神を「諸国の神々」と同様の存在と考えていた。彼の高慢は主なる神がどのような御方であるかを知らないことに起因した。