Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 イザヤ書37章14~29節

聖書研究 イザヤ書37章14~29節(新共同訳 旧約pp.1119-1120)

(1) ヒゼキヤの祈り(14~20節)

 ヒゼキヤは「主の神殿に上って行」(14節)き、センナケリブが送った「手紙を主の前に広げ、主の前で祈った」(14~15節)。その手紙には「生ける神をののしる」(17節)言葉が綴られていた。これを根拠にヒゼキヤは主なる神に「わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主であることを知るに至らせてください」(20節)と祈り求めた。
 また、ヒゼキヤは、センナケリブが証拠として挙げた「諸国の神々」(12節)は「神ではなく、木や石であって、人間が手で造ったものにすぎ」(19節)ないこと、主なる神だけが「地上のすべての王国の神」であり、「天と地をお造りになった方」であることを告白した(16節)。
 ヒゼキヤの祈りは単に戦勝を祈願するものではなかった。彼は、主なる神がユダを救われることによって、「地上のすべての王国」に主なる神の義が示されることを願った(20節)。ヒゼキヤは主なる神に対する正しい知識の故に主なる神の裁きを求めた。
 祈りは主なる神を信頼することの表現である。祈りの基礎は信仰であり、祈りの結果は応答であり、祈りの目的は主なる神の栄光である。私達は危機に直面するとすぐに絶望し、諦めてしまう。或いは、人間に頼り、目に見える状況に右往左往してしまう。問題の解決のために努力すること自体は悪いことではない。しかし、主なる神に依り頼まないことは問題である。危機に直面した時には必死になって主に祈りを献げよう。その時、私達は驚くべき主の御業を体験する。

(2) センナケリブに対する主なる神の宣告(21~29節)

 主なる神を「ののしり、侮った」(23節)センナケリブの高慢な姿とは対照的に、ヒゼキヤは危機の中で主なる神だけに頼る謙遜な姿勢を示した。彼は「主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いて御覧ください」(17節)と切に求めた。主なる神はイザヤを通してヒゼキヤの祈りに答えられた(21節)。
 センナケリブは自分が神の民を懲らしめるための道具であることを全く知らなかった。これまでの彼の勝利も、主なる神が「いにしえの日に心に描いたこと」を「実現させ」るためのものであった(26節)。何も知らないセンナケリブに対し、主なる神は遂に裁きを宣言された(29節)。
 主なる神だけに頼り、ひれ伏したヒゼキヤとユダの民は救いを得たが、高慢の極みに達し、主なる神を嘲ったセンナケリブアッシリアは滅ぼされた。高慢は滅びへと、謙遜は恵みへと私達を導く。