Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ヨブ記32章1~14節

聖書の黙想と適用 ヨブ記32章1~14節(新共同訳 旧約p.817)

(1) エリフの怒り(1~5節)

「自分は正しいと確信していた」ヨブに対し、3人の友人達は反論することが出来なかった(1節)。ここでエリフが登場する。
 エリフはそれまでヨブと友人達の議論を黙って聞いていた。「彼らが皆、年長だったので」(4節)、エリフは論争に割って入ることをしなかった。このことは彼がとても思慮深く、礼儀正しい人であったことを示している。律法に「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である」(レビ記19章32節)とある。長年生きてきた人の豊かな経験に基づく知恵から学ぶべきことは多い。
 その一方で、彼らの話を聞いていて、エリフは次第に怒りが込み上げてきた。彼は、ヨブが「神よりも自分の方が正しいと主張」(2節)していると思い、腹が立った。ヨブに対し主なる神を冒瀆していると思ったのかも知れない。また、ヨブの友人達が、ヨブの苦しみを罪の故であると決めつけ、彼を罪に定めようとしながら、「ヨブに罪のあることを示す適切な反論を見いだせ」(3節)ず、沈黙してしまったのを見て、無責任であると思い、やはり怒りが込み上げてきた(5節)。
 エリフは、ヨブと友人達が、彼らの人生経験と知恵、洞察力によって、ヨブの苦しみに対する主なる神の御心を理解すると共に、互いを慰め、励まし、建て上げる言葉を語り合うのを期待していたのかも知れない。しかし、彼らは、一向に歩み寄りのない論争を延々と続け、互いを非難し合った。その様子を見て、主なる神の摂理に対する知恵と洞察力は、年齢や経験によるのではなく、主なる神から与えられるものであることをエリフは悟った。

(2) 聖霊が与える知恵(6~9節)

 全ての人間は「神にかたどって創造され」(創世記1章27節)、主なる神から「命の息を吹き入れられた」(同2章7節)霊的な存在である。それ故、主なる神は人間に知恵を与えることが出来る。人間の中にある「霊」を通して「全能者」が息を吹き入れることで、人間は「悟りを与え」られるとエリフは言う(8節)。
 エリフは、真の知恵は人からではなく、主なる神から来ることを確信していた。多くのことを学び、様々な経験をすることによって、私達は知恵を得ることが出来る。しかし、年齢や経験を重ねたとしても、私達は主なる神の摂理を悟ることにおいて必ずしも「賢くな」り、「ふさわしい分別ができる」ようになるわけではない(7節、9節)。人間が持っている知恵には限界がある。
 それ故、私達は主なる神の言葉の前で常に謙遜にならなければならない。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(コリントの信徒への手紙一1章25節)からである。また、身分、地位、名誉、性別、年齢などの如何に関わらず、他の人の意見や問題提起が聖書的に妥当である時には、いつでも耳を傾けられるようにしたい。聖霊は誰を通して教えられるか分からないからである。

(3) よく聞いて、意見を述べる(10~14節)

 エリフは、自分の意見を述べる前に(10節)、ヨブと友人達の「言葉を待ち/その考えに耳を傾け/言葉を尽くして論じるのを聞」(11節)いた。その上で、友人達が、ヨブにまっとうな反論をすることが出来ずに(12節)、「彼を負かすのは神であって人ではない」(13節)と言って、ヨブとの論争を終えたのは無責任であると批判する。そこで、エリフは、友人達のような論法では答えず、彼らとは異なる観点から意見を述べようとした(14節)。
 原因の分からない突然の災いにヨブは心身ともに傷つき、疲れ果て、慰めや愛を求めていた。にもかかわらず、ヨブに対し、友人達は主なる神の裁きが下ったと一方的に批判した。そして、議論を重ねる中で、相手を論破したいという思いに駆られ、関係が却って悪化してしまった。
 私達は、まず相手の意見に関心を持ち、詳しく聞いてから話すべきであり、それなしに安易に他の人を責めてはならない。相手の状況と考えと感情を考えずに、自分の立場だけを押し付ける言葉は、どれほど真剣であっても相手の拒絶を招き易い。苦しみの中にある人にとっては、些細な一言が大きな傷となり、温かい慰めの一言が大きな力と励ましを与える。「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう」(コロサイの信徒への手紙4章6節)。