Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書38章9~22節

聖書の黙想と適用 イザヤ書38章9~22節(新共同訳 旧約pp.1121-1123)

(1) 天を仰ぐヒゼキヤ(9~14節)

「病気であったが、その病気が治って命を得たユダの王ヒゼキヤの記した歌」(9節)には、死に対する人間の恐れがよく表現されている。「命ある者の地にいて主を見ることもなくなり/消えゆく者の国に住む者に加えられ/もう人を見ることもない」(11節)とヒゼキヤが歌っているように、永遠の命を信じるキリスト者にとっても、主なる神が「息の根を止めようとされる」(12節、13節)のは恐ろしいことである。
 この時、ヒゼキヤは「つばめや鶴のように」「すすり泣きの声をあげ」、「鳩のように」「呻」いた。そして、目が「弱り果てる」ほど「天を仰いで」、主なる神に自分を生かして下さるよう嘆願した(14節)。死を前にしても、ヒゼキヤは信仰を失わなかった。
 私達は危機や絶望に捕われると不信仰に陥ることがある。しかし、神の民は、絶望的な状況にあっても、ヒゼキヤのように信仰を守ることを求められている。

(2) 主なる神に感謝と讃美を献げるヒゼキヤ(15~22節)

 ヒゼキヤは「心に苦痛を抱」(15節)いていた時にも、「わたしの受けた苦痛は/平和のためにほかならない」(17節)と述べ、自分の苦しみが主なる神のご計画の内にあることを堅く信じていた。また、「主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。わたしの霊も絶えず生かしてください」(16節)と述べ、苦しみの中にあっても自分が一人ではないことを決して忘れなかった。
 だからこそ、ヒゼキヤは「わたしを健やかにし、わたしを生かしてください」(16節)と祈り、主なる神の「まことに期待」(18節)した。それは辛い試みや逆境の中で簡単に不平を言い、主なる神を信じられなくなってしまう私達の姿とは対照的である。主なる神は私達の全ての道を共に歩んで下さる方である。私達が倒れて失敗した時も、主なる神は私達から去ったり、私達を見捨てたりはされない。
 また、ヒゼキヤは病が癒されることによって主なる神の答えが臨んだ後も高慢になることがなかった。彼は自分が何か優れた者であるかのように癒されたことを誇らなかった。逆に彼は「あなたはわたしの魂に思いを寄せ/滅びの穴に陥らないようにしてくださった。あなたはわたしの罪をすべて/あなたの後ろに投げ捨ててくださった」(17節)と述べ、自分の全ての罪を赦して下さった主なる神に感謝を献げた。
 更に、ヒゼキヤは「わたしたちは命のあるかぎり主の神殿で/わたしの音楽を共に奏でるでしょう」(20節)と述べ、神殿で自分を救って下さった主なる神に生涯讃美を献げることを表明している。そして、病気が快復した後(21節)、彼は早速それを行おうとしている(22節)。このようなヒゼキヤを主なる神はどれほど喜ばれただろうか。
 主なる神の恵みを受け、罪の赦しを得た時、私達は主なる神に感謝と讃美を献げる者とされる。大切なのは私達が毎日、そしてあらゆることにおいて主なる神を第一とすることである。