Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 詩編50編1~15節

聖書の黙想と適用 詩編50章1~15節(新共同訳 旧約pp.883-884)

(1) 裁きを行われる主なる神(1~6節)

 主なる神は、「御言葉を発し」て、「日の出るところから日の入るところまで」(1節)、即ち全世界から人々を「呼び集められ」(1節)、御自身を「顕現される」(2節)。私達が主なる神を探し求めるのではなく、主なる神の方から私達に臨まれる(3節)。
 主なる神が臨まれるのは「御自ら裁きを行われる」(6節)ためである。主が審判者として臨まれる時、「御前を火が焼き尽くして行き/御もとには嵐が吹き荒れている」(3節)。また、天が「神の正しいことを告げ知らせる」(6節)。主なる神の臨在は、主に従う者にとっては喜びとなるが、主に逆らう者にとっては恐れとなる。
 主なる神が裁きを行う時にまず呼ばれるのは「御自分の民」(4節)である。主なる神は御自分の民を「わたしの慈しみに生きる者」、「いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者」(5節)と呼ばれている。イエス・キリストという完全な生贄によって贖われた新しい契約の民として、キリスト者はその恵みに相応しく生きなければならない。

(2) 御自分の民を救われる主なる神(7~15節)

「わたしの民」と「お前の神」という表現は(7節)、主なる神がイスラエルの神となられ、イスラエルが神の民となった契約の関係をよく表している。
 イスラエルの民は献げ物をすることで主なる神を礼拝した。主なる神は審判者としてイスラエルの罪について「告発する」(7節)。しかし、献げ物のことでは彼らを責められなかった。彼らが「焼き尽くす献げ物」を熱心にささげていたからである(8節)。
 とはいえ、献げ物に対する彼らの考えには問題があった。イスラエルの民は主なる神のために献げ物をしなければならないと考えていた。しかし、「森の生き物」も「山々に群がる獣」も全て主なる神のものである(10節)。主は人間から献げ物を受けなければ「飢える」ような方ではない(12~13節)。「世界とそこに満ちているものはすべて」主なる神のものである(12節)。
 献げ物に対するイスラエルの民の誤った考えを指摘した後、主なる神は「告白を神へのいけにえとしてささげ」、「満願の献げ物」をすること(14節)、そして「苦難の日」に主なる神を呼び求めることを命じられた(15節)。主なる神に依り頼むこと、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」(ローマの信徒への手紙12章1節)ることを、主なる神は何よりも求めておられる。
 真の礼拝は、主なる神からいただいた恵みに対する感謝の応答であり、契約を忠実に守ること、主なる神に依り頼むことである。そのような礼拝者を主なる神は救って下さる。そして、そのことを通して主なる神の栄光が現される(15節)。契約に従い、心と思いを尽くして主なる神と隣人を愛そう。