Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 詩編50編16~23節

聖書の黙想と適用 詩編50編16~23節(新共同訳 旧約p.884)

(1) 主なる神に背く者(16~20節)

 主なる神は「背く者」に対し、「わたしの掟を片端から唱え/わたしの契約を口に」しながら、その実「わたしの諭しを憎み/わたしの言葉を捨てて顧みない」と叱責された(16節)。主なる神の「諭しを憎み」、主なる神の「言葉を捨てて顧みない」というのは、人生において主なる神の言葉を無視して、自分の欲のままに行い、主なる神との契約に不誠実であることを意味した。彼らは主なる神を全く知らない人々ではなかった。寧ろ主なる神を知っていながら、その御心を無視する者であった。
 主なる神に背く者は、自らの既得権のためなら、「盗人」や「姦淫を行う者」とも仲間になった(18節)。また、悪事を企み、人を欺き(19節)、「兄弟をそしり」(20節)、悪い行いを常とした。これらは主なる神の言葉を捨てた結果である。主なる神の言葉から離れることと、罪を犯すことは不可分の関係にある。

(2) 神を忘れる者よ、弁えよ(21~23節)

 主なる神は、ご自分の民が罪を犯した時、すぐに罰することはされず、長く忍耐される。そのようにして私達に悔い改める機会を与えて下さる。
 しかし、主なる神は、私達が行うこと、思うことを全てご存知であられる。そして、私達の罪に対していつまでも「黙している」(21節)わけではない。私達の「罪状を」私達の「目の前に並べて」、私達を「責め」られる時が必ずやって来る(21節)。このような御方を私達が忘れたり、その掟を口先だけで唱えたり、形式的に仕えることは、実に愚かな行いである。
 主なる神は「神を忘れる者よ、わきまえよ。さもなくば、わたしはお前を裂く。お前を救える者はいない」(22節)と言って、御自分に背く者に悔い改めを求められた。悔い改めなければ、主なる神は、ご自分の民であっても、必ず罰を与えられる。しかし、主なる神の言葉に照らして自らの歩む「道を正す人」には、主なる神はご自分を現され、「救いを示」される(23節)。