Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 詩編51編1~11節

聖書の黙想と適用 詩編51編1~11節(新共同訳 旧約pp.884-885)

(1) 背きの罪を拭って下さい(1~8節)

 ダビデは「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事を見られることをしました」(6節)と述べ、主なる神の律法に従わなかった自分の罪を認めた(5~6節)。彼は自分の罪を正当化したり、過小評価したり、そこから背を向けたりしなかった。そして、その罪が自分をどれほど苦しめているかを主なる神に訴えた。
 ダビデは、母が「身ごもったとき」から自分は「罪のうちに」あり、「咎のうちに産み落とされ」たと告白した(7節)。彼は自分が罪に対してどれほど弱いか、罪の誘惑の前でいかに無力であるかを痛感していた。
 その上で、ダビデは「わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください」(3節)と祈り求めた。その際、彼が主なる神に赦しを求めた根拠は、主なる神の「御慈しみ」と「御憐れみ」であった(3節)。
 私達も罪を持って生まれ、自分でそれを退けることは出来ない。また、どれほど良い行いをしても、自分の罪を相殺することは出来ない。私達は罪を犯した時、ただ主なる神の恵みと憐れみに依り頼んで、赦しを求めなければならない。

(2) 私を洗って下さい(9~11節)

ダビデがバト・シェバと通じ」(2節)、その罪を隠蔽するために彼女の夫ウリヤを死に到らせたことは(サムエル記下12章9節)、人間の堕落を赤裸々に表している。ダビデは自分の罪を隠そうと策を巡らし、それは成功したかのように見えた。
 しかし、主なる神の目を避けることは出来なかった。ダビデは主なる神が遣わされた預言者ナタンの叱責を受けた。また、「あなたによって砕かれたこの骨」(10節)という表現は、ダビデが主の懲らしめを受けたことを象徴的に示している。事実、主なる神は、バト・シェバの産んだダビデの子を打ち、生後7日目に死ぬという罰を彼にお与えになった(サムエル記下12章15~18節)。
 このことを通して、ダビデは主なる神の御前では罪を隠せないことを悟った。彼は「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように」(9節)と主なる神に求めた。
 キリスト者は罪を遠ざけ、罪を犯さないように苦闘する。それでも、私達の中にある罪の習性は、私達を恐ろしい罪へと追いやることがある。罪は欲という隙を突いてくる。私達は自分で罪を解決出来ない。その事実を悟る時、私達は、ダビデのように主なる神の御前にひれ伏し、罪の赦しと憐れみを求める者へと変えられていく。