Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 詩編52編1~11節

聖書の黙想と適用 詩編52編1~11節(新共同訳 旧約p.886)

(1) 悪事を誇る者とその帰結(1~7節)

 ダビデは、「エドム人ドエグ」(2節)がサウルの命令を受けて、ノブの祭司と町の人々を皆殺しにしたという知らせを受けて、自分のせいだと考えた(サムエル記上22章18~22節)。そして、そのことを非常に悲しんだ。また、主の祭司と町の人々を死に追いやったドエグに対して憤った。この詩にはダビデの悲しみと怒りが込められている。
 ダビデはドエグを「力ある者」(1節)と呼んでいる。ドエグは人に「破滅をもたらす」(4節)邪悪な計画を考え、自らの「悪事を誇」(3節)った。それに対し、ダビデは、彼が「善よりも悪を」(5節)好み、また「人を破滅に落とす言葉、欺く舌を好む」(6節)ことを、主なる神に告発した。
 主なる神に逆らう者の特徴は、舌を「人を欺く」(4節)ために使うことである。言葉は行いほど力がないように見える。しかし、邪な言葉がもたらす害は、実に大きく、深い。そして、「欺く舌」の根源には、主なる神を否定し恐れない、不信仰が根を張っている。
 欺く舌をもって人に破滅をもたらし、悪事を誇る者は、一時的に栄えているように見えても、いつか必ず滅びる。主なる神が、そのような人間を放ってはおかれず、「打ち倒し、永久に滅ぼされる」(7節)からである。ダビデは主なる神が必ず悪を裁かれることを確信していた。それ故、ドエグに対して裁きを告げた。主なる神は、他の人を死に到らせる邪悪な者を、「命ある者の地から根こそぎにされる」(7節)。
 人の言葉はその人の内面を映す鏡のようなものである。言葉はその人格の表現である。イエス・キリストは「人の口からは、心にあふれていることが出て来る」(マタイによる福音書12章34節)と言われた。私達の口を通してイエス・キリストの香りが広がらなければならない。

(2) 主なる神に従う人とその帰結(8~11節)

「神に従う人」は、主なる神に逆らう者に臨む裁きの中に、主なる神の正義の御手が及んでいるのを見る。彼らは、主に逆らう者が「神を力と頼まず/自分の莫大な富に依り頼み」(9節)ながら、結局滅びてしまったのを見て笑う(8節)。主に逆らう者の裁きは、神の義を実現すると共に、神の民をより一層「神を畏れる」(8節)ことへと導く。
 主なる神以外の存在に頼る時、結局は失敗する。主なる神を信じると言いながら、富やこの世の力に頼ることは、主なる神を欺くことである。私達は主なる神だけに頼る信仰に堅く立たなければならない。
 ダビデは、自分のことを「神の家」、即ち神殿に「生い茂るオリーブの木」に喩えている(10節)。それは「世々限りなく、神の慈しみに依り頼」(10節)むという信仰の告白だった。主なる神に依り頼む人は、神の家にあるオリーブの木のように、立派な枝を張ることが出来る。そして「流れのほとりに植えられた木」のように「ときが巡り来れば実を結」ぶ(1編3節)。
 主なる神に従う人の生活は、主なる神が「計らってくださ」る。それ故、ダビデは、主なる神に「感謝をささげ」、「御名に望みをお」いた(11節)。彼は、悪賢いドエグによって多くの祭司と住民が虐殺されたことを聞いて、胸に裂けるような思いになった。それでも、主なる神に依り頼み、主なる神の裁きを確信していた。この世は矛盾と不条理に満ちている。主に逆らう者が勢力を得、栄えているように見える。しかし、主なる神の慈しみはとこしえに変わらない。主なる神の御業を期待し、主なる神だけに従おう。