Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 詩編53編1~7節

聖書の黙想と適用 詩編53編1~7節(新共同訳 旧約pp.886-887)

(1) 「神などない」と考える者(1~4節)

 ダビデは「神などない」(2節)かのように生きることがいかに愚かであるかを語る。「神などない」と考えることは、その人を「腐敗」させ、「忌むべき行い」へと導く(2節)。そして、主なる神に従って生きようとする人を嘲笑うようになる。恐れるべきものがないので、人に知られなければ、何をしてもいいと考えるからである。
 ダビデは、「天から人の子らを見渡し」、「目覚めた人、神を求める人はいないか」と「探される」主なる神の姿を描写する(3節)。主なる神が求められる「善を行う者」(2節、4節)とは「目覚めた人、神を求める人」である。主なる神は被造物を通してご自身を啓示されている(ローマの信徒への手紙1章19~20節)。それらを通して「目覚めた」時、私達は「神を求める」ようになる。
 しかし、主なる神がそのような人を探し求められた時、「だれもかれも背き去」り、「皆ともに、汚れて」いた(4節)。「善を行う者はいない。ひとりもいない」(4節)と主なる神は嘆かれる。
 主なる神を畏れない人間と社会は腐敗する。「それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」(士師記21章25節)士師時代のイスラエルが、これを証明している。現代の人間も、「神などない」と考え、「神を求め」なくても自分の力で生きられるかのように錯覚している。しかし、聖書は主なる神を否定する人を愚かな者であると語る。主なる神を知らないことは無知の極致だからである。主なる神を求め、主なる神を畏れる人こそ、真に知恵のある人である。私達は主なる神を求めなければならない。

(2) 主なる神を呼び求めない者の末路(5~7節)

「悪を行う者」(5節)は、「神などない」(2節)と言い張り、主なる神を知ることもない。そのため、自分の罪深さを知ることもない。また、自分の行為がどのような結果をもたらすのか、正しく判断することも出来ない。「パンを食らうかのようにわたしの民を食らい」(5節)とは、彼らが残酷なことを平気で行ったことを意味する。主なる神を認めず、求めない霊的な無知は、自分が犯した罪に対しても私達を無知にする。
 主なる神を求めない人々は、主なる神よりも自分自身に頼り、この世の知識、富、名誉、権力などを安全の拠り所にして生きている。しかし、それらが提供する安全は一時的なものであり、やがて霧のように消えてしまう。
「神を呼び求めることをしない者」(5節)の末路は、恐れと裁きである。「かつて、恐れたこともなかった者」が「大いに恐れる」ようになる。そして、主なる神は「彼らを退けられ」、「辱め」られる。「パンを食らうように」神の民を「食ら」った「悪を行う者」の「骨を神はまき散らされ」る(6節)。こうして主なる神は御自身を畏れる者を救い、御自身を畏れない者を裁かれる。
 主なる神は、「神などない」と言う者に羞恥と破滅を、御自身を求める者に救いと喜びをもたらされる(7節)。そして、「御自分の民、捕われ人を連れ帰られる」(7節)主なる神の救いの御業は、イエス・キリストを通して完成された。私達の救いは、やがて消え去るこの世のものにあるのではなく、主なる神を畏れ、主なる神に頼ることにある。この世において私達は、主なる神を信頼し、主が与えて下さる平安に満たされ、主なる神を証ししていこう。主なる神の裁きと救いを宣べ伝えていこう。