Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 詩編54編1~9節

聖書の黙想と適用 詩編54編1~9節(新共同訳 旧約p.887)

(1) 御名によって私を救って下さい(1~5節)

 ダビデがサウルを避けて、ジフの荒れ野のホレシャにある要害に隠れていた時、ジフ人の中に「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」(2節)とサウルに知らせる者がいた(サムエル記上23章19節)。そのため、ダビデは危機に陥った。
 敵から命を狙われる状況にあってダビデは「神よ、御名によってわたしを救い/力強い御業によって、わたしを裁いてください」(3節)と叫び、主なる神に縋った。義なる裁判官であられる主なる神に、その御名と権威によって自分を救って下さることを祈り求めた。主なる神の御名を呼ぶことは、主なる神の御前に謙遜にひれ伏すことを意味した。
 ダビデは「異邦の者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者がわたしの命をねらっています」(5節)と訴えた。彼らはダビデと会ったことも戦ったこともなく、ダビデに敵対する理由がなかった。それでも彼らは自分達の利益のためにダビデを殺そうとした。彼らが「自分の前に神を置こうとしない」(5節)者だったからである。主なる神を忘れる時、人間に残るのは自分だけである。ダビデは「人間には救う力はな」く、人間に「依り頼んではならない」ことを知っていた(詩編146編3節)。主なる神以外に救いを期待することは出来ない。
 主なる神はその御名を呼ぶ人の近くにおられ、その「口にのぼる願いに耳を傾けて」(4節)下さる。主なる神はご自分に頼る人を決して見捨てられない。そのような人を御腕で支えられ、その御名によって救われる。主なる神だけが唯一の救いの希望である。だから、私達はいつも主なる神の御前に生き、ありったけの力で主なる神にしがみ付かなければならない。主なる神の御前に謙遜にひれ伏す人こそ、真に強い人である。

(2) 神は私を助けて下さる(6~9節)

 ダビデは「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる」(6節)と告白する。自分の命を狙う暴虐な者を前にして、ダビデは自分の命を主なる神に委ねたのである。それは、主なる神が支えて下さる命を誰も奪うことは出来ないという信仰告白であった。敵に追われる状況の中でも、動揺しないでいられる根拠は、《主なる神が共にいて下さる》という確信にあった。
 また、ダビデは、主なる神が自分を「陥れようとする者に災いを報い」、その「まことに従って彼らを絶や」されることを願っている(7節)。ダビデは暴虐な者に自分で報復することも出来たが、それも主なる神に委ねた。「わたしが報復し、報いをする」(申命記32章35節)、「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」(ローマの信徒への手紙12章19節) という主なる神の言葉を信じたのである。実際、ダビデにサウルを殺せる絶好のチャンスが2度も訪れたが、ダビデはサウルを殺さなかった(サムエル記上24章12~14節、26章9~11節)。主なる神の言葉に信頼したからである。
 ダビデは「主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ/恵み深いあなたの御名に感謝します」(8節)と表明した。この時、ダビデの目の前の状況は何も変わっていない。暴虐な者は彼の命をなお狙っていた。それでも、ダビデは「主は苦難から常に救い出してくださ」(9節)ると確信していた。主なる神がその言葉通りに成し遂げて下さると信じていた。
 主なる神はご自分の御名を呼ぶ者の近くにおられ、救いの恵みを注がれる。私達は生きていると、思いもよらない困難や苦しみに遭う。過ちもないのに窮地に追いやられることもある。そのような時、私達は感情に走って愚かな判断をし、取り返しのつかないことをしてしまう危険性がある。そのような時にも、ダビデのように主なる神に対する信仰を捨ててはいけない。主なる神は決してご自分の民を見捨てられない。私達の命も人生も主なる神の御手の中にある。そのことを今一度心に刻み、どのような時でも主なる神に切実に叫び求めよう。