Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 詩編55編16~24節

聖書の黙想と適用 詩編55編16~24節(新共同訳 旧約pp.888-889)

(1) 私は神を呼ぶ(16~22節)

 ダビデが苦難の中にあって選択したのは祈ることだった。苦難の時には「夕べも朝も、そして昼も」(18節)祈り、主なる神の助けを求めた。「わたしは神を呼ぶ。主はわたしを救ってくださる」(17節)と確信していたからである。心にある思いを主なる神に打ち明けることをダビデは大切にした。
 そして、そのように祈るダビデに、主なる神は、助けの御手を伸ばし、彼の「魂を贖い出し、平和に守」(19節)られる。そして、ダビデの命を狙う敵を「低くされる」(20節)。主なる神は、私達が祈る時、私達の「声を聞いてくださる」(18節)方であり、私達に救いと平安を与えて下さる。私達も苦難が訪れた時、ダビデのように迷わず主なる神の御前に出る者でありたいものである。
 一方、主なる神に逆らう者は、低くされてもなお「神を畏れること」(20節)がない。ダビデは主なる神を畏れない敵の裏切りを具体的に描写している。彼はかつてダビデと「楽しく、親しく交わり/神殿の群衆の中を共に行き来した」「友」であった(14~15節)。しかし、「自分の仲間」であったダビデに「手を下し、契約を汚」(21節)した。彼は非常に狡猾な者であった。「心には闘いの思いを抱き」ながら、「口は脂肪よりも滑らかに語」り、「言葉は香油よりも優し」かった(22節)。主なる神を畏れない者は、本心を隠して上辺を装うことに迷いがない。誰も自分の本心を見破ることは出来ないと考えるからである。
 主に従う者と逆らう者の違いはここに表れている。罪人であるのは同じだが、主に従う者は、主なる神を畏れ、罪を悟ると悔い改めて立ち帰る。しかし、主に逆らう者は、主なる神を畏れることがないため、自分の罪を認めず、主に立ち帰ることも生き方が変わることもない。神の民であると言いながら、主なる神を畏れる心が欠けているなら、主に逆らう者と同じようになる。人生に変化がなく、上辺だけの信仰になってしまう。

(2) 重荷を主に委ねよ(23~24節)

 ダビデは、自分を裏切った友の虚飾と狡猾さについて語った後、「あなたの重荷を主にゆだねよ」(23節)と自らに命じた。ここで言われている「重荷」とは、人生の中で経験する思い煩いや恐れを意味する。私達が思い煩いや恐れから自由になる道は、信仰によって主なる神に委ねることである。
 ダビデは「主は従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる」(23節)と確信していた。それは、主なる神が自分の重荷をご存知であり、敵が自分を苦しめたとしても、主なる神が自分を支え、助けて下さるという信仰の告白であった。主なる神を信じていても心が揺れることはある。しかし、永遠に揺れることはない。主なる神がそれを許されないからである。
 ダビデは、主なる神が敵を裁いて下さるという確信と、「わたしはあなたに依り頼みます」(24節)という信仰の告白によって詩を結んでいる。「欺く者、流血の罪を犯す者」は、主なる神を畏れず、立ち帰ることもないため、主なる神ご自身の手によって「滅びの穴に追い落と」される(24節)。一方、ダビデは、どのような状況にあっても、主なる神に依り頼むことを決断した。主なる神はそのような人を救って下さる。
 私達は思い煩いを「何もかも神にお任せ」することが出来る(ペトロの手紙一5章7節)。そして、主なる神は今日も私達を御許に招いておられる(マタイによる福音書11章28節)。私達は祈りによっていつでも主の御前に出ていくことが出来る。ダビデのように、主なる神の愛と力を信じ、自分の重荷を、更には自分の人生を主なる神にお委ねしよう。そして、平安を心に満たしていただき、主なる神の御業を待ち望もう。