Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 詩編57編1~12節

聖書の黙想と適用 詩編57編1~12節(新共同訳 旧約pp.890-891)

(1) 神よ、私を憐れんで下さい(1~5節)

 ダビデは自分を殺そうとするサウル王から逃げ、洞窟、要害、荒れ野、異邦の地など、どこにでも身を隠した(1節)。この詩は冒頭で「サウルを逃れて洞窟にいたとき」(1節)の詩であることが語られている。洞窟に隠れて息を殺し、危険な状況が通り過ぎるのを切実な思いで待っていたダビデの様子が想像される。
 切迫した状況の中でダビデは「憐れんでください/神よ、私を憐れんでください」(2節)と主なる神に助けを求めて叫んだ。そして、「災いの過ぎ去るまで」主なる神の「翼の陰を避けどころ」とすることを切望した(2節)。どれほど困難な状況に置かれたとしても、ダビデのように主なる神を求めなければならない。真の平安は主なる神を避け所とする時に与えられる。
 ダビデは、主なる神のことを「いと高き神」(3節)、「わたしのために何事も成し遂げてくださる神」(3節)と呼んでいる。このことは非常に重要である。もし自らの祈りに答えられる方が、天の御座に就かれ、全地を治められるいと高き神でなければ、いくら叫んでも救えないこともあるだろう。また、主なる神が私達のために何事も成し遂げて下さる方でなければ、いくら叫んでも空しいだけである。主なる神がいと高き神であり、私達のために何事も成し遂げて下さる方であるが故に、私達は確信をもって主なる神に叫び、主なる神の救いを期待することが出来る。
 ダビデは、主なる神が「慈しみとまこと」をもって自分を「踏みにじる者の嘲りから」「救って」下さることを期待した(4節)。彼は、自分の命を狙う敵が「獅子」や「火を吐く人」のようであり、「彼らの歯は槍のように、矢のように/舌は剣のように、鋭い」と嘆く(5節)。だが、主なる神が共にいて下さり、敵の鋭い攻撃をはね返して下さる。敵が強そうに見えても、主なる神の「慈しみとまこと」の方が遥かに強い。それ故、ダビデは「あなたの慈しみは大きく、天に満ち、あなたのまことは大きく、雲を覆います」(11節)と主なる神を讃美した。苦難の時、私達は祈りによって主なる神の「恵みの座」に出て行き、この方の「憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただく」ことが出来る(ヘブライ人への手紙4章16節)。

(2) 私は心を確かにします(6~12節)

 ダビデは、主なる神が「慈しみとまこと」(4節)をもって自分を敵から守り、救って下さると信じていた。主なる神が彼の状況や嘆き悲しみ、悔しさなどを全てご存知であり、敵を滅ぼして下さると確信していた。
 主なる神は、ダビデの敵がダビデの「足もとに網を仕掛け」、ダビデの「前に落とし穴を掘」る時、彼ら自身が「その中に落ち込」むようにして下さる(7節)。主なる神を信じる者は、主が敵に報いて下さる時を待つことが出来る。その人には未来が保障されている。問題がいつどのようにして解決するのかは分からなくても、答えは分かっている。
 ダビデは、主なる神が敵を裁いて下さるという確信の中で「心を確かにし」、主なる神に対して「あなたに賛美の歌をうたいます」と言い表した(8節)。そして、「諸国の民の中で」主なる神の救いの恵みに「感謝し」、「国々の中でほめ歌をうた」うことを決心している(10節)。
 この時ダビデは逃亡中の身であり、真暗な洞窟の中に身を潜めていたが、どこまでも高く広い天を仰いだ。そして、「天の上に高くいま」す「いと高き神」(3節)が、「栄光を全地に輝かせて」下さることを望んだ(6節、12節)。主なる神は私達の人生においてこのような逆転を可能にされる方であられる。