Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 詩編58編1~12節

聖書研究 詩編58編1~12節(新共同訳 旧約p.891)

(1) 主なる神に逆らう統治者(2~6節)

 共同体に正義と平和を実現するためには、権力を与えられている者が「正しく語り/公平な裁きを行」(2節)う必要がある。統治者がそのことに関心を持たない時、悪が蔓延る。
 ダビデは正義と平和を実現する責任を果たそうとしない統治者の堕落と無関心を批判する。ダビデは彼らを「人の子ら」(2節)と呼んでいる。「人の子ら」というのは、主なる神のご主権の下にある有限な人間を意味する。どれほど大きな権力や力を持った人間も、主なる神のご支配の下にある。そのことを忘れる時、高慢になり、堕落し、自分が主権者であるかのように行動する。主なる神から目を離すと、自分が小さく弱い者であることを忘れてしまう。
 彼らは、主なる神の律法から遠ざかり、「不正に満ちた心をもってふるまい」、「不法」を行った(3節)。心の中心に主なる神をお迎えしなければ、悪い思いがそこに居座り、それが悪い行いとして現れるようになる。
 ダビデは、「神に逆らう者」(4節)である彼らを、「耳の聞こえないコブラ」に喩えている(5節)。彼らは「蛇の毒にも似た毒を持ち」(5節)、共同体を麻痺させ、次第に死に到らせる。また、「蛇使いの声にも巧みに呪文を唱える者の呪文にも従おうとしない」(6節)コブラのように、主なる神の言葉に対して「耳をふさいで」(5節)いる。彼らは、主権者であられる主なる神の言葉を聴かず、民の訴えや嘆きに耳を貸さず悪を行った。主なる神の言葉に耳を傾けない時、その悪は止まることを知らない。

(2) この地を裁かれる主なる神(7~12節)

 不正を行う統治者が共同体に害悪を及ぼしている現実について、ダビデは主なる神に訴えた。彼は「主が獅子の牙を折ってくださるように」(7節)、「彼らは水のように捨てられ、流れ去るがよい」(8節)、「なめくじのように溶け/太陽を仰ぐことのない流産の子となるがよい」(9節)といった表現で、主なる神が彼らを徹底的に滅ぼして下さることを求めた。
 ダビデの憤りは個人的な復讐心に基づくものではない。ここで彼が怒っていることは、主なる神が憎まれることであった。彼らは、暴虐な獅子のように人々を虐げ、搾取していた。指導者が腐敗する時、弱者が最も大きな被害を受ける。「鍋が柴の炎に焼けるよりも速く」(10節)、即ち彼らが共同体を苦しめる前に、その不義の支配を早く打ち砕いて欲しいとダビデは求めた。彼の祈りは、主なる神と共同体を思う心から出ていた。彼は、主なる神は義なる方であるという信仰を持ち、主なる神は必ず悪者を裁かれると確信していた。
「神に逆らう者」(4節)が滅ぼされて、主なる神の義が現れる時、これまで暗い現実の中を生きてきた「神に従う人」は「喜」(11節)ぶ。その時には、「神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。神はこの地を裁かれる」(12節)と誰もが認めるようになる。人間の裁きに対して誰もが納得することは難しい。不完全で誤りもあり、不公平に思われるからである。しかし、主なる神の裁きは誰もが認める。完全に正しいからである。
 主なる神はその民に報いられ、自らその「目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(ヨハネの黙示録21章4節)。このことを確信する時、神の民は不義の世にあっても、落胆したり、恨んだりせず、生きていくことが出来る。私達を今ここに遣わして下さっている主なる神を畏れ、悪から離れ、主なる神に依り頼もう。そして、主なる神の御心を為しながら生きていこう。