Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 詩編59編1~18節

聖書研究 詩編59編1~18節(新共同訳 旧約pp.892-893)

(1) 主なる神は万軍の神であられる(1~8節)

「サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき」(1節)、ダビデは主なる神に救って下さるよう祈り求めた。彼は自分の「命をねらって待ち伏せし/争いを仕掛けて来」(4節)る者を「敵」、「立ち向かう者」(2節)、「悪を行う者」、「流血の罪を犯す者」(3節)、「欺く者」(6節)と呼んでいる。彼らは、「夕べになると」「餌食を求めて」「町を巡」る「犬のように」(7節、15~16節)、ダビデを「打ち破ろうとして身構えてい」(5節)た。
 それに対し、ダビデは主なる神だけに依り頼んだ。彼は敵が自分を狙っていることを主なる神に告げた。そして、自分には彼らから命を狙われなければならないような「罪もなく過ちもなく/悪事をはたらいたこともない」と訴えた。四方を敵に包囲されているかのような状況の中で、ダビデは「わたしを敵から助け出し/立ち向かう者からはるかに高く置いてください」(1節)と叫んだ。
 主なる神は、御自分の民が味わう悔しさや苦しみ、御自分の民が受ける不当な嘲りや迫害を御存知である。そして、「万軍の神」(6節)として御自分の民のために戦って下さる。ここに私達の希望がある。

(2) 主なる神は砦の塔であられる(9~18節)

 ダビデは、主なる神が「わたしの神」(1節)、「砦の塔」(10節、18節)、「わたしたちの盾」(12節)、「苦難の日の逃れ場」(17節)、「わたしの力」(18節)であると告白し、主なる神の守りと助けを求めた。この世に安全な逃れ場はない。危機の時にこの世のものに頼っても、脆く崩れ去る。だが、主なる神を逃れ場とする時、私達は決して倒れることがない。
 また、ダビデは「悪を行う者、欺く者を容赦しないでください」(6節)と祈り、敵に裁きが臨むことを主なる神に求めた。その時、主なる神は、ダビデを「陥れようとする者」を彼に「支配させ」る(11節)。その「御力」をもって「彼らを動揺させ屈服させる」(12節)。また、彼らはダビデに「聞くに堪え」ないような言葉を吐いたが(8節)、「口をもって犯す過ち/唇の言葉、傲慢の罠に/自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に」彼ら自身が「捕えられ」る(13節)。こうして主なる神が「御怒りによって彼らを絶や」し、「ひとりも残さない」時、人は「神はヤコブを支配する方/地の果てまでも支配する方であること」(14節)を知ることになる。
 主なる神に助けを切に願い求めたダビデ祈りは、主なる神への讃美をもって終わっている。ダビデは、敵を裁き、彼を救って下さった主なる神の「慈しみ」(17節)をほめたたえる。「慈しみ」(חָ֫סֶד [checed])とは、主なる神が御自分の民に示される真実の愛を意味する。「慈しみ深い」(18節)神は、苦しむダビデを最後まで見捨てず、愛し、守り、そして恵みをお与えになった。
 神の民においては全てが主なる神への感謝と讃美に変わる。主なる神御自身が力、盾、砦の塔、逃れ場となって下さるからである。