Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 詩編60編1~14節

聖書の黙想と適用 詩編60編1~14節(新共同訳 旧約pp.893-894)

(1) 辛苦を通しての主なる神の警告(1~7節)

 この詩では「ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰って来て塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき」(2節)のことが歌われている。
 しかし、詩の前半で、ダビデは、主なる神が「怒って」、イスラエルを「突き放し」、「散らされ」(3節)、「よろめき倒れるほど、辛苦の酒を飲ませられた」(5節)と語っている。イスラエルの敗北は地震のような凄まじい災難として描写されている(4節)。この敗北は、最終的に勝利した戦いにおける一時的な劣勢であると考えられる。
 ダビデは「どうか我らを立ち帰らせてください」(3節)と祈り求めた。彼は、主なる神がイスラエルの罪を怒られたため、異邦人との戦いに敗北しそうになっていると考えた。イスラエルの劣勢を主なる神の警告として受けとめた(6節)。そして、主なる神との関係の回復を求めた。困難に直面したり、失敗した時、私達は自分が今悔い改めるべき罪について考える必要がある。
 その上で、ダビデは、主なる神がイスラエルを「右の御手でお救い」(7節)になることを願った。「右の御手」とは力を意味する。ダビデは回復と救いを求めながら、敵に勝利させて下さる主なる神の御力を切望した。
 ここでダビデは、主なる神に対しイスラエルを「御自分の民」(5節)、「あなたを畏れる人」(6節)、「あなたの愛する人々」(7節)と呼んでいる。主なる神は、ご自身に頼り、ご自身を「畏れる人」(6節)を愛される。神の民の勝利は主なる神の御手にかかっている。主なる神が共におられる人生こそが勝利の人生である。私達は罪を悔い改め、自分達に対する主なる神の愛に留まらなければならない。

(2) 人間の与える救いはむなしい(8~14節)

 ダビデの祈りに対する答えとして、主なる神は「聖所から宣言され」た(8節)。主なる神は、「ギレアドはわたしのもの/マナセもわたしのもの/エフライムはわたしの頭の兜/ユダはわたしの采配」(9節)と言われ、イスラエルが主なる神のものであることを民に思い起こさせた。のみならず、「モアブ」も「エドム」も「ペリシテ」も主なる神のご支配の下にあり(10節)、主なる神はイスラエルの敵を裁かれる。
 ダビデは再び出陣しながら(13節)、主なる神の導きを求めた(11節)。そして、「どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです」(13節)と主なる神だけに依り頼んだ。ダビデは、「神が敵を踏みにじってくださ」(14節)ることを信じ、人間の救いに頼ろうとはしなかった。
 失敗して、主なる神が自分を忘れたかのように感じる苦しい瞬間にも、主なる神だけに依り頼もう。宗教改革マルティン・ルターが作った讃美歌「神はわがやぐら」に「われと共に戦いたもうイエス君こそ万軍の主なるあまつ大神」とあるように(『讃美歌』267番)、イエス・キリストはご自身の民を率いて「正義をもって裁き、また戦われる」将軍である(ヨハネの黙示録19章11節)。死にも悪魔にも勝利されたイエス・キリストを将として出て行く時、私達はいかなる戦いにも勝利することが出来る。