Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 アモス書1章13節~2章5節

聖書研究 アモス書1章13節~2章5節(新共同訳 旧約pp.1429-1430)

(1) アンモンとモアブに対する審判(1章13節~2章3節)

 主なる神は、聖なる方であられるので、人間の罪を裁かれる。主は罪を犯したイスラエルと周辺の国々に対して裁きを宣告された。主なる神の裁きは、罪に対する戦いであり、聖さに対する主なる神の熱心である。
 主なる神はアンモンに対して裁きを宣告された。アンモンの人々の罪は、「領土を広げ」(13節)るために、イスラエルの領土であったギレアドに頻繁に侵略し、「ギレアドの妊婦を引き裂」(13節)くという暴虐で悪辣な行為に及んだことである。主は「アンモンの人々の三つの罪、四つの罪のゆえに/わたしは決して赦さない」(13節)と告げられ、彼らの罪を見逃すことをなさらなかった。
 主なる神の裁きは、アンモンの人々が拠り所にしていたものに向けられた。「わたしはラバの城壁に火をつける」(14節)と主は言われる。ラバはアンモンの政治・軍事・宗教の中心地であった。主なる神はバビロンを用いてラバを焼き尽くされる。そして、アンモンの「王は高官たちと共に/捕囚となって連れ去られる」(15節)。主なる神の裁きを免れられる「城郭」(14節)は存在しない。この世のいかなる罪も主なる神から隠れることは出来ない。
 また、主なる神はモアブに対しても裁きを宣告された。モアブの人々は残酷な行為を日常的に行っていた。例えば、彼らは、隣国である「エドムの王の骨を焼き、灰にし」(2章1節)、それを壁に上塗りして漆喰のように利用した。それは、死者に対する最低限の礼儀も守らない行為であり、人間の尊厳を損ねることであった。また、モアブの首都「ケリヨト」(2節)では、人間を焼いてケモシュという偶像に捧げる祭儀が行われた。モアブの宗教は主なる神の目に憎むべきものであった。
 主なる神は「モアブに火を放」(2節)って、彼らの罪を裁かれる。ケリヨトは火で包まれ、「鬨の声があがり、角笛が鳴り響く中で/混乱のうちにモアブは死ぬ」(2節)。特に、主なる神はモアブの指導者に対してとりわけ厳しい裁きを下される。モアブを「治める者をそこから絶ち/その高官も皆殺しに」(3節)される。彼らが、与えられた力と権威をもって民を主なる神に仕えて善を行うことではなく、偶像礼拝と悪の道へと導いたからである。
 主なる神は王の王、主の主であられる。全ての国の指導者であられ、全ての人間を裁かれる。偶像を拝み、隣人に対する憐れみの心を持たなかったアンモンとモアブの人々に、主なる神は裁きを与えられた。また、ご自分に逆らう偶像を倒された。主なる神は人の目には隠された罪も全て見ておられる。そして、その罪が満ちた時に裁きを下される。罪は主なる神の御前に積まれている。

(2) ユダに対する審判(4~5節)

 主なる神は周辺の国々だけでなくユダにも裁きを宣告された。ユダが犯した幾つかの重大な罪の故に、主なる神は「ユダに火を放」ち、「火はエルサレムの城郭をなめ尽くす」と言われた(5節)。
 周辺の国々に対する裁きの理由が彼らの悪い行いにあったのに対し、ユダに対する裁きの理由は、彼らが「主の教えを拒み/その掟を守らず/先祖も後を追った偽りの神によって/惑わされた」(4節)ことにあった。ユダの人々は神の民として主なる神に従って生きることを求められていた。にもかかわらず、彼らは律法を無視し、偶像を拝んだ。主なる神の言葉を捨てた人は肉体的、精神的、霊的にさまようようになる。このような人生は聖霊を悲しませ、最終的には悲惨な状態に陥る。
 主なる神は、ご自分に従うことを拒み、罪を捨てない民に火を放って、聖くされる。ご自分に不従順な民を裁き、悔い改めへと導くことによってご自分の栄光を現される。「わたしたちの神は、焼き尽くす火」(ヘブライ人への手紙12章29節)である。
 キリスト者も主なる神の裁きから除外されることはない。キリスト者イエス・キリストを信じない人々にだけ裁きが下されると考えがちである。しかし、主なる神は、自分の罪を認めることを拒否し、聖書の教えに逆らう道を意図的に歩もうとするキリスト者を裁かれる。不従順から離れ、聖霊の御声に耳を傾けよう。