Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 アモス書2章6~16節

聖書の黙想と適用 アモス書2章6~16節(新共同訳 旧約p.1430)

(1) 貧しい者に対する罪(6~8節)

 主なる神は、ユダ(南王国)を含む7つの国に対して裁きを宣告された後、イスラエル(北王国)にも裁きを告げられた。彼らは全世界の「祭司の王国、聖なる国民」(出エジプト記19章6節)として召された。だが、主なる神の目にイスラエルは異邦の国々と何ら変わらなくなってしまっていた。模範を示すべき民が、異邦の民よりも大きな罪を犯し、それを悔い改めようともしなかった。
 イスラエルは「正しい者を金で/貧しい者を靴一足の値で売った」(6節)。また、「父も子も同じ女のもとに通」(7節)うという悪を行った。主なる神の律法は、隣人を愛することによって主なる神に栄光を帰するよう命じている。にもかかわらず、彼らは、隣人を愛さず、貧しい者、弱い者から奪い取り、「悩む者の道を曲げ」(7節)た。それは主なる神の召しに対する不従順を意味した。異邦人よりも大きな悪を行うことによって、イスラエルは主なる神の「聖なる名を汚し」(7節)た。
 更に、イスラエルは「祭壇のあるところで」(8節)罪を犯した。彼らは、貧しい者や弱い者から奪い取った「衣を広げ」たり、「科料として取り立てたぶどう酒を/神殿の中で飲んで」楽しんだ(8節)。私物化された宗教は偶像礼拝であり、主なる神の言葉に逆らう悪である。何故なら、それは主なる神と隣人への愛を蔑ろにしているからである。

(2) 預言者やナジル人に対する罪(9~16節)

 イスラエルは主なる神の特別な恵みによって立てられた。主なる神は、イスラエルをエジプトから連れ出され、アモリ人が住んでいたカナンの地へと導かれた(9~10節)。出エジプトとカナン征服は、イスラエルの力によるものではなく、主なる神の御業である。
 その上で、主なる神は、イスラエルの民に主なる神の言葉の通りに生き、主なる神に仕え、隣人を愛することを願われた。そのために、主なる神は、モーセを通して律法を与えられただけでなく、適切な時期に「預言者」を起こし、主なる神の言葉を送って下さった(11節)。彼らが主なる神に立ち返り、罪を犯さないように配慮して下さったのである。また、主なる神は「ナジル人」を通してイスラエルアイデンティティを示された(11節)。
 だが、イスラエルは主なる神の恵みに対して悪をもって報いた。彼らは「ナジル人に酒を飲ませ/預言者に、預言するなと命じた」(12節)。主なる神の言葉を聞きたくなかったからである。その結果、彼らは更なる悪に傾いていった。
 主なる神はイスラエルに対して戦いを宣告される。彼らの罪を懲らしめ、ご自分の民として立ち返ることを願われたからである。「その日」、主なる神の裁きを免れる人はいない。「素早い者」も「強い者」も「勇者」も、「弓を引く者」も「足の速い者」も「馬に乗る者」も、「勇者の中の雄々しい者」も、その日には「自分を救いえない」(14~16節)。主なる神はご自分の民に対し「その日」が来る前に悔い改め、立ち返ることを願われる。彼らが「祭司の王国、聖なる国民」だからである。