Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 アモス書5章1~13節

聖書研究 アモス書5章1~13節(新共同訳 旧約pp.1434-1435)

(1) 主を求めよ、そして生きよ(1~6節)

 かつて主なる神は自らが選ばれたイスラエルを救い、ご自身を啓示された。モーセは、イスラエルが罪を犯した場合について「もし、この書に記されているこの律法の言葉をすべて忠実に守らず、この尊く畏るべき御名、あなたの神、主を畏れないならば、主はあなたとあなたの子孫に激しい災害をくだされる」(申命記28章58~59節)と告げた。また、主なる神は、アモスを遣わし、イスラエルがどのような罪を犯したのかを指摘し、彼らを悔い改めへと導こうとされた。
 しかし、霊的に鈍くなっていたイスラエルは、律法を無視し、アモスの預言も受け入れなかった。そのためアモスイスラエルの滅びについて「うたう悲しみの歌」(1節)を歌った(2~3節)。イスラエルが滅びを免れられないのは、彼らが主なる神を捨てたからである。イスラエルに対する主なる神の特別な保護は、彼ら自身の罪によって取り去られた。イスラエルは自らの罪の代価を払わなければならなかった。
 主なる神を求めない者は自滅の道を歩むことになる。主なる神を捨てたイスラエルは、反省しようともせず、滅びへと向かう。彼らは「倒れて/再び起き上がらず/地に捨てられて/助け起こす者はいない」(2節)。「千人の兵を出した町に、生き残るのは百人/百人の兵を出した町に、生き残るのは十人」(3節)だけである。主なる神を捨てることは命を失うことに他ならなかった。
 罪を犯したイスラエルに向かって、主なる神は「わたしを求めよ、そして生きよ」(4節)と呼びかけられた。しかも、主なる神はそれを一度だけ語られたのではない。「主を求めよ、そして生きよ」(6節)と繰り返し述べられている。
 この時、イスラエルの人々は「べテル」「ギルガル」「ベエル・シェバ」といった宗教的中心地で偶像礼拝を行っていた(5節)。主なる神は、偽りの宗教行為の虚しさを指摘すると共に、イスラエルの民が再び心からご自分を求めることを願われた。生きる道は主なる神にしかない。主なる神のもとに行く道だけが命の道である。愛と力は主なる神にだけあり、主なる神を求める時にだけ与えられる。

(2) 正義を投げ捨てたイスラエル(7~13節)

 主なる神は万物を統べ治めておられる。主は、人間の力が及ばない「すばるとオリオンを造」られた方であり、「闇を朝に変え/昼を暗い夜に」することの出来る方であり、「海の水を呼び集めて地の面に注がれる方」である(8節)。主なる神には不可能なことはない。そして、主なる神はご自身に依り頼む者の救いとなられ、命を与えて下さる。
 主なる神を求めることは主なる神への従順を意味する。逆に、主なる神を求めないことは主なる神への不従順、即ち悪を行うことを意味する。善を行うか、悪を行うかのどちらかで、中間は存在しない。
 イスラエルの支配層は「正しいことを地に投げ捨て」(7節)、「町の門で訴えを公平に扱う者を憎み/真実を語る者を嫌」(10節)った。彼らの悪は、具体的には「弱い者を踏みつけ/彼らから穀物の貢納を取り立てる」(11節)こと、「正しい者に敵対し、賄賂を取り/町の門で貧しい者の訴えを退け」(12節)ることにおいて表れた。それは力がなく貧しい者を顧みることを求める主なる神の律法とは正反対の方向に向かうことであった。そして、このような悪の横行に対し「知恵ある者」は「沈黙」した(13節)。望みが見えないからである。主なる神を求めないイスラエルの人々には希望が割って入る余地さえなかった。
 罪を犯し続けるイスラエルに対し、主なる神は「お前たちの咎がどれほど多いか/その罪がどれほど重いか、わたしは知っている」(12節)と言われた。その上で、「切り石の家を建てても/そこに住むことはできない。見事なぶどう畑を作っても/その酒を飲むことはできない」(11節)と宣告された。主なる神を無視する時、私達は罪を犯し、私達の人生は最善を尽くしても実を収穫出来ない人生となる。
 主なる神は、悪を行う者を裁き、正しい者を救われる。天地万物の創造主であり、主権者であられる神を求めることだけが生きる道である。主なる神を畏れ、その言葉に従おう。