Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 アモス書7章10節~8章3節

聖書研究 アモス書7章10節~8章3節(新共同訳 旧約pp.1438-1439)

(1) アモスと祭司アマツヤ(10~17節)

 預言者は主なる神の言葉を受け取ってそのまま伝える存在である。自分で考え出したことを伝えるのではない。預言者の権威と力は主なる神の言葉にある。一方、偽預言者は、主なる神から聞いたのではないこと、自分にとって利益になること、自分が考え出したことを伝える。
「ベテルの祭司アマツヤ」は、イスラエル(北王国)の悲惨な滅亡を預言したアモスに怒りを感じた。アマツヤは「イスラエルの王ヤロブアム」に「アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません」(10節)と告発した。彼はアモスの言葉を誇張し、歪曲してヤロブアムを嗾けた。アマツヤは真理を憎み、主なる神の裁きを認めようとしなかった。罪は人間を偽りと無知の暗闇に閉じ込める。
 また、アマツヤは、アモスと直接会って、「ベテルで二度と預言するな」(13節)と求め、アモスの故郷である「ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい」(12節)と嘲った。その際、彼は、自分が住むベテルについて「王の聖所、王国の神殿」(13節)であると誇っている。権力者と人々の機嫌を取ろうとするアマツヤは、アモスの預言によって自分の立場が危うくなることを恐れた。彼はイスラエルの人々が悔い改めて主なる神の御前に正しく立つことを願わなかった。ただ自分の利益になることだけを考え、自分の地位を守ることに努めた。彼にとっての判断基準は権力と利益であったので、悪を指摘するアモスを死ぬほど憎んだ。
 これに対し、アモスは、自分がどのような者であり、どのように預言者となったかを明らかにした。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ」(14節)とアモスは言う。彼は「テコヤの牧者の一人」(1章1節)だった。しかし、「家畜の群れを追っている」時に「行って、わが民イスラエルに預言せよ」という主なる神の言葉が臨んだ(15節)。そして、抗うことの出来ない召しに従って、彼はイスラエルで預言を語り始めた。アモスは、イスラエル(北王国)の預言者のように国から報酬を得ていたわけではなく、自分の職業を持っていた。それ故、人脈や経済的利益を超えて、イスラエルに対する主なる神の裁きをまっすぐに伝えることが出来た。主なる神は、ご自身を畏れて謙るアモスを通して、ご自身の思いを告げさせた。
 アモスはアマツヤに主なる神の言葉を告げる。「イスラエルに向かって預言するな、イサクの家に向かってたわごとを言うな」(16節)と言って、主なる神の言葉が語られるのを妨げたアマツヤに対し、アモスは「お前の妻は町の中で遊女となり/息子、娘らは剣に倒れ/土地は測り縄で分けられ/お前は汚れた土地で死ぬ」(17節)と宣告した。主なる神は預言者イザヤを通して「わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ書55章11節)と告げられた。主なる神の言葉は違わず成就する。主なる神の言葉を聞きたくなくても、裁きを告げられたら避けることの出来る者はいない。
 預言者は主なる神の召しを受けた御言葉の代弁者である。私達も主なる神の言葉に依り頼む時、人に依り頼む者から脅かされるかも知れない。しかし、人に依存する時、私達はアマツヤのように人を恐れ、人を喜ばせるためのメッセンジャーとなってしまう。ただ主なる神の言葉だけが真実であり永遠である。主なる神の言葉に依り頼み、罪を悔い改める者だけが安息を得ることが出来る。主なる神を信頼する者は、アモスのように大胆に主なる神の言葉を告げ、その成就を見ることが出来る。

(2) 第四の幻(1~3節)

 主なる神はアモスに「一籠の夏の果物(カイツ)」の幻を見せられた(1節)。主なる神が「アモスよ、何が見えるか」と問われ、アモスが「一籠の夏の果物です」と答えると、主なる神は「わが民イスラエルに最後(ケーツ)が来た」と宣告された(2節)。ヘブライ語で「夏の果物」(קָ֫יִץ [qayits])と「最後」(קֵץ [qets])は類似した形を持つ単語であり、これによって裁きが強調されている。
 主なる神はイスラエルが良い実を結ぶことを期待された。そして、これまで長い間、イスラエルに対して忍耐してこられた。しかし、夏の果物が日を追うごとにどんどん熟し、食べなければ腐ってしまうように、罪の実を結んだイスラエルは、今や主なる神の裁きを待つだけになってしまった。「その日」には、大勢の人が死に、祭りと喜びの日に歌っていた「宮殿の歌い女は泣きわめ」き、「しかばねはおびただしく/至るところに投げ捨てられる」ことになる(3節)。
 私達が罪を犯し続ける時、主なる神が「もはや、見過ごしにすることはできない」(2節)と言われる時が必ずやって来る。にもかかわらず、私達は、主なる神の憐れみについて、いくら罪を犯しても怒られないという誤った考えを抱きがちである。主なる神が憐れみ深い方であられるが故に、私達は一層主なる神を愛し、罪を悔い改め、主なる神が喜ばれるように生きなければならない。