Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 アモス書8章4~10節

聖書の黙想と適用 アモス書8章4~10節(新共同訳 旧約pp.1439-1440)

(1) 主なる神と隣人に対する罪(4~6節)

 預言者の務めは、主なる神の言葉を伝え、偽りを明らかにすることである。主なる神は、夏の果物の幻を通して、イスラエルの罪を「もはや、見過ごしにすることはできない」(2節)とアモスに告げられた。アモスは「このことを聞け」(4節)と叫び、「その日」(9節)に下る主なる神の裁きをイスラエルに宣告した。
 主なる神は「貧しい者を踏みつけ/苦しむ農民を押さえつける者」(4節)を見逃されない。彼らは、主なる神が与えた律法を軽んじ、「エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまか」(5節)して利益を得ていた。また、「弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取」(6節)っていた。イスラエルの存在の目的は、主なる神の律法を守り、主なる神と隣人を愛することにあった。しかし、彼らは、悪を好み、律法を捨て、隣人を自分の利得のための手段として利用した。そして、欲望のままに生きようとした。
 主なる神は、人を抑圧し、搾取して得たもので贅沢に耽ることを非常に嫌われる。アモスは既にこのことを告げてきた。幾つかの国々が主なる神の裁きを避けられなかったのは、彼らが隣人に対する「憐れみの情を捨て」(1章11節)、虐げてきたからである。同様に、イスラエルの悪が彼らを主なる神の裁きに到らせた。主なる神の裁きは遠くにあるのではない。日々の生活の中で蒔いた罪の種が育ち、実を結んで熟する時、悪を行う者は主なる神の裁きを受けることになる。

(2) 罪がもたらす結果(7~10節)

 主なる神はイスラエルに「わたしは、彼らが行ったすべてのことを/いつまでも忘れない」(7節)と言われる。彼らは主なる神を畏れず、貪欲を満たすために悪を行い続けた。主なる神はイスラエルに対して長い間忍耐してこられた。しかし、時が来ると、イスラエルを裁かれる。彼らの悪が彼ら自身を滅ぼすことになる。
 アモスイスラエルに対する主なる神の裁きを天変地異の描写をもって表現している。「その日が来ると」、ナイル川の水位が季節によって上下するように、「大地は揺れ動」く(8節)。また、主なる神は日食の時のように「真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする」(9節)。
 そして、主なる神が裁きを下される日は、イスラエルにとって悲しみの日となる。その日、主なる神は「祭りを悲しみに/喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え」(10節)られる。「どの腰にも粗布をまとわせ」(10節)は嘆き悲しみのしるしである(創世記37章34節、ヨエル書1章8節、13節)。「どの頭の髪の毛もそり落とさせ」(10節)も死者のために嘆き悲しんでいることの表現である(イザヤ書22章12節、エレミヤ書48章37節)。どの人も腰に粗布をまとい、髪の毛を剃り落とすというのは、全ての人が災いを経験することを意味する。その日イスラエルの人々は「独り子を亡くしたような悲しみ」(10節)を味わうことになる。
 自分が蒔いた種を刈り取る日がやって来る。或る人は善の種を蒔いて主なる神の憐れみを刈り取り、或る人は罪の種を蒔いて主なる神の怒りを刈り取る。