Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 雅歌5章1~8節

聖書の黙想と適用 雅歌5章1~8節(新共同訳 旧約pp.1054-1055)

(1) 若者の歌(1節)

 愛する女性と夫婦として愛を分かち合う花婿の喜びが表されている。「香り草やミルラ」、蜂蜜、「ぶどう酒と乳」は、花婿が愛する花嫁を通して得た喜びをイメージ化したものである。喜びに満ちた花婿は、婚宴に出席する全ての人に「友よ食べよ、友よ飲め。愛する者よ、愛に酔え」(1節)と呼びかけた。
 イエス・キリストの愛は私達に真の喜びと幸福が何であるかを悟らせてくれる。この喜びを通して得る自由は、私達を変化させる驚くべき原動力になる。この愛を経験した者は、この世の一時的なものから満足を求めなくなる。金銭や名誉より主を求めることに最善を尽くそう。そうすれば、生きようが死のうが、貧しかろうが豊かだろうが、押し寄せてくる幸福に浸ることが出来る。主なる神が私達をそのように造られたからである。

(2) おとめの歌(2~8節)

 花婿が自分を捜して、戸を叩いた時(2節)、花嫁は「衣を脱いでしまったのに/どうしてまた着られましょう。足を洗ってしまったのに/どうしてまた汚せましょう」(3節)と応じなかった。そこには花嫁の葛藤を垣間見ることが出来る(4~5節)。私達も、主なる神を愛する心よりも自我が頭をもたげる時、主なる神との関係が疎遠になる。主なる神と私達の愛を壊すのは私達の不従順である。
 その後、花嫁は自分の過ちを悟って戸を開いた。しかし、花婿は既に去っていた(6節)。彼女は花婿を捜し回るが、「呼び求めても」返事はなく、花婿は見つからなかった。そればかりか、花嫁はとんでもない災難に遭った。「街をめぐる夜警」や「城壁の見張り」は、花婿を捜し回る彼女を見て、彼女が気が狂って町を歩き回っていると思った。そのため、彼らは彼女を攻撃した(7節)。花嫁の一時的な葛藤が深刻な結果をもたらした。