Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 雅歌5章9~16節

聖書の黙想と適用 雅歌5章9~16節(新共同訳 旧約p.1055)

(1) おとめたちの歌(9節)

 花嫁は花婿との愛の関係について重大な危機を迎えた。花嫁は「もしわたしの恋しい人を見かけたら/わたしが恋の病にかかっていることをその人に伝える」(8節)と誓って欲しいと「エルサレムのおとめたち」(8節)に求めた。それに対し、彼女達は「あなたの恋人はどんなにいいひと/こんな誓いをさせるとは」(9節)と婉曲な表現を用いて断っている。これは花嫁に直接自分の感情を花婿に表現させるためである。
 イエス・キリストに対する渇望がない人はイエス・キリストと愛を分かち合うことは出来ない。イエス・キリストを知ってはいても、イエス・キリストよりも自分が直面している問題の解決にだけ関心がある人ほど不幸な人はいない。そのような人は、全てのものを持っている母親や父親ではなく、彼らの手の中にある贈り物だけを見上げる子供と同じである。本当に価値があり重要なことは、イエス・キリストを求めること、イエス・キリストを知ることである。

(2) おとめの歌(10~16節)

「あなたの恋人はどんなにいいひと/こんな誓いをさせるとは」(9節)という「エルサレムのおとめたち」(8節)の問いに、花嫁は歌をもって答えた。
 花嫁は花婿を「わたしの恋しい人」(10節)と呼んでいる。そして、「わたしの恋する人」、「わたしの慕う人」(16節)という言葉で結んでいる。これは花婿が花嫁にとってこの上なく愛おしく大切な存在であることを表している。
 一方、新婦が描写する花婿の姿は、究極的にイエス・キリストのご性質と人格を表している。例えば、花婿の「頭は金、純金」(11節)であるという表現は、イエス・キリストが罪のない方であることを思い起こさせる。「目は水のほとりの鳩」(12節)という花婿の姿からは、民に対するイエス・キリストの柔和で謙遜なご性質を連想される。「脚は純金の台に据えられた大理石の柱」(15節)は、民を守られるイエス・キリストの堅固なご性質を意味する。
 イエス・キリストが初めてこの世に来られた時、「見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もな」(イザヤ書53章2節)かったため、人々はこの方を軽蔑し、尊ばなかった。しかし、花嫁が花婿をほめたたえる言葉から、私達は、イエス・キリストがいかに尊く、栄光に満ち、聖く、威厳に満ちた方であるかを垣間見ることが出来る。