Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ヨナ書1章11節~2章1節

聖書の黙想と適用 ヨナ書1章11節~2章1節(新共同訳 旧約pp.1445-1446)

(1) 私を海に放り込むがよい(11~12節)

 信仰生活において自分の願いと主なる神の願いが異なる時、私達は葛藤する。イエス・キリストもオリーブ山で「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(ルカによる福音書22章42節)と祈られたが、天の父の御心はイエス・キリストが十字架を負われることであった。そして、イエス・キリストは、自分の願いではなく、天の父の御心を第一とされた。
 祈りは、私達が主なる神に願い求めるだけでなく、主なる神が私達に願われる通りに私達が変えられる過程をも含んでいる。ヨナが「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる」(12節)と言ったことは、自分の過ちを認める信仰的な決断である。
 私達は、何か問題が起こると、他の人のせいであると思って腹を立てる。しかし、ヨナは「わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている」(12節)と述べた。彼は自分の罪を認め、主なる神に自分を委ねたのである。自分の罪を認めることから真の信仰は始まる。

(2) 主に向かって叫ぶ乗組員(13~17節)

「海がますます荒れて、襲いかかってきた」(13節)時、船の乗組員は「主に向かって叫んだ」(14節)。「海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者」(9節)ではなかった人々が、神を「主」と呼び、「この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください」(14節)と切に叫び求めた。彼らは、激しく荒れる海を前にして、自分がこの上なく無力で小さな存在に過ぎないことを告白したのである。
 ところが、くじを引いて当たった「ヨナの手足を捕らえて海へほうり込むと、荒れ狂っていた海は静まった」(15節)。すると、「人々は大いに主を畏れ」(16節)た。更に、主なる神は、ヨナのために既に大きな魚を備えておられ、「巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた」(2章1節)。
 船の乗組員が「主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから」(14節)と告白したように、主なる神は全てを治めておられる。主なる神は、ヨナの行く方向を変えるために、自然の力を動員された。
 そして、主なる神は、ヨナであれ、ニネベであれ、ご自分に背を向ける者への愛を諦めない方である。主なる神は、ヨナがしっかりと判断し、決断することが出来るよう、暴風を起こし、船に打撃を与えられた。主なる神は何と親切な方なのだろう。主なる神は、全世界の人々から栄光と讃美を受けるに相応しい方である。