Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 詩編66編1~7節

聖書の黙想と適用 詩編66編1~7節(新共同訳 旧約pp.897-898)

(1) 全地による主なる神への讃美(1~4節)

 詩人は「全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。御名の栄光をほめ歌え。栄光に讃美を添えよ」(1~2節)と呼びかける。「御名の栄光」は主なる神の御名が持つ栄光であり、主なる神のご性質と密接に繋がっている。
 主なる神が御業を行われる時、全地に感嘆と恐れをもたらす。「御業はいかに恐るべきものでしょう。御力は強く、敵はあなたに服します」(3節)。主なる神の御業は、全地を主なる神に向かって「ひれ伏し」、礼拝し、「御名をほめ歌」うことへと導く(4節)。
 創造主なる神を認め、主なる神に栄光を帰すことは、被造物が主なる神に対してとるべき態度であり、なすべき義務である。特に、神の民は、喜びと確信をもって主なる神に対して讃美し、祈る者である。

(2) とこしえに力強く支配する主なる神(5~7節)

 詩人は、主なる神が導かれた出エジプトの出来事について、まるで目の前で繰り広げられたことのように、「来て、神の御業を仰げ/人の子らになされた恐るべき御業を」(5節)と語っている。
 出エジプトの時、「神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った」(6節)。海が乾いた地となることを誰が想像しただろうか。それは人知を超えた御業であった。それ故、イスラエルの民は「主よ、神々の中に/あなたのような方が誰かあるでしょうか。誰か、あなたのように聖において輝き/ほむべき御業によって畏れられ/くすしき御業を行う方があるでしょうか」(出エジプト記15章11節)と叫んだ。
 詩人は「神はとこしえに力強く支配し/御目は国々を見渡す。背く者は驕ることを許されない」(7節)と宣言する。王の王、主の主であられる主なる神は、奇しい御業を行われる全能者であり、世界と歴史を御力をもって治められる主権者である。主なる神が選ばれた民になさった偉大な御業は、全ての民が主なる神の御前にひれ伏し、拝むべき理由である。