Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書1章39~56節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書1章39~56節(新共同訳 新約pp.100-101)

(1) マリア、エリサベトを訪ねる(39~45節)

 イエス・キリストを身ごもったマリアは、自分よりも先に主なる神の御業を体験したエリサベトと会うために急いでユダの町に向かった(39節)。エリサベトは、ヨハネを身ごもった後、主なる神が「わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださ」(25節)ったと大いに感謝していた。
 マリアがザカリアの家に着いて、エリサベトに挨拶すると(40節)、エリサベトの胎内にいた子供が喜び躍った(41節)。マリアのお腹の中にいる方が誰であるかを知ったからである。
 エリサベトも、マリアのことを「わたしの主のお母さま」(43節)と呼び、その胎内の子を「主」と告白している。このことをエリサベトに語らせたのは聖霊である(41節)。エリサベトは、聖霊に満たされて、マリアの胎内の子供を「主」と告白し、その御前で自分が僕であることを認めた。
 その上で、エリサベトは「あなたは女の中で祝福された方です」(42節)と述べ、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(45節)とマリアを祝福した。マリアは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた」ことによって、「女の中で祝福された」者となった。主なる神の言葉を信じ、従う時、私達にも祝福された人生が始まる。

(2) マリアの讃歌(46~56節)

 主なる神が行われる御業には必ず讃美が伴う。マリアは、聖霊に満たされたエリサベトを通して祝福の言葉を聞くと、感謝と喜びの中で主なる神をほめたたえた。
 マリアの讃歌では、卑しい者に目を留め、高く引き上げられる主なる神の恵みと憐れみが言い表されている。彼女は、主なる神を「救い主である神」(47節)と、自分自身を「身分の低い、主のはしため」(48節)と呼んでいる。マリアは自分が「聖なる者、神の子」(35節)の母となるのは不相応なことであるとよく知っていた。しかし、主なる神はそのような彼女に「目を留め」(48節)られた。マリアは「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいました」(49節)と述べ、救いの御業を行うための器として自分を用いて下さった主なる神に感謝を献げている。それは彼女の謙遜の表れであった。
 また、マリアは主なる神が「その腕で力を振る」(51節)われたと歌っている。即ち、主なる神は「身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満た」(52~53節)した一方で、「思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし」(51~52節)、「富める者を空腹のまま追い返され」(53節)た。更に、主なる神は、マリアだけでなく、ローマ帝国によって抑圧され、卑しめられている「僕イスラエル」を「とこしえに」顧み、「アブラハムとその子孫に対して」「憐れみをお忘れに」なることがない(54~55節)。
 51節以下の「振るい」(Ἐποίησεν [Epoiēsen])、「打ち散らし」(διεσκόρπισεν [dieskorpisen])、「引き降ろし」(καθεῖλεν [katheilen])、「高く上げ」(ὕψωσεν [hypsōsen])、「満たし」(ἐνέπλησεν [eneplēsen])、「追い返され」(ἐξαπέστειλεν [exapesteilen])と訳されている動詞は、ギリシア語の原文では全て過去形で書かれている。この点について、キリスト教神学者の宮平望は「神のそのような行為は過去に限定されるものではなく、神によって過去に実現したことは、現在もまた未来も神の哀れみと同様に続くものである(ルカ1:50)」と説明している(宮平望『ルカによる福音書――私訳と解説』東京: 新教出版社, 2009年, p.60)。事実、主なる神は、旧約の時代においても、高ぶる者、思い上がる者を嫌われ、その御手をもって「御力を示」(詩編118編15~16節)し、「御腕の力をもって敵を散らされ」(詩編89編10節)た。
 また、宗教改革者のマルティン・ルターは、「主はその腕で力を振るい」という箇所について「聖書に神の『御腕』といふのは、神が被造物を用ゐずして直接御業を爲し給ふ御自身の御力のことである。それは隠秘の裡に行はれるので、何人もそれが事實となつて了ふまでは、之に氣が附かない。即ちこの御力乃至御腕は專ら信仰による以外には之を理解し認識することが出來ないのである」と説明している(Martin Luther, Das Magnificat Verdeutscht und Ausgelegt (吉村善夫訳「マリヤの讚歌」石原謙, 吉村善夫訳『マリヤの讚歌 他一篇』岩波文庫; 2651-2652, 東京: 岩波書店, 1941年, p.110)。隠れた所で行われる主の御腕の業は信仰の目でしか見ることが出来ない。
 マリアが生きていた当時のユダヤにおいても、現代の日本においても、この世では権力ある者、富める者が、弱い者、貧しい者を支配しているように見える(マルコによる福音書10章42節)。ここで歌われている内容は、既に起こったどころか、それから2000年が経った今も実現していないように私達には見える。しかし、マリアはイエス・キリストの来臨によってこれらのことが起こったのを信仰の目を以て見た。
 マリアは、自分の胎内にいる子供を通して、主なる神がイスラエルのために行われる御業を信仰によって示され、主なる神を讃美した。マリアにとって、「エリサベトのところに滞在し」た3か月は(56節)、互いを励まし、建て上げ合う時となったことだろう。