Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 ルカによる福音書2章25~38節

聖書研究 ルカによる福音書2章25~38節(新共同訳 新約pp.103-104)

(1) シメオンによる讃美(25~35節)

 ザカリアとエリサベトが「神の前に正しい人」(1章6節)と言われていたように、シメオンも「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められることを待ち望」(25節)んでいた。そして、「イスラエルの慰められること」とは、「主が遣わすメシア」(26節)の到来に他ならなかった。彼は「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」(26節)という主なる神の約束を受けていた。そのお告げが与えられた時期は分からないが、シメオンはその約束をずっと心に留め、それが成就する時を待ち望んでいた。
 ヨセフとマリアが「幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして」(27節)、神殿にやって来た時、シメオンも「“霊”に導かれて神殿の境内に入」(27節)った。そして、そこで彼は幼子のイエス・キリストを見た。神殿には聖所と至聖所のある建物のほかに、イスラエルの庭、婦人の庭、異邦人の庭があった。シメオンが彼らに会ったのは、異邦人の庭、或いは婦人の庭であった筈である。しかし、顔も名前も知らない初対面の彼らのことをどのように分かったのだろうか。聖霊の御業という以外には説明出来ない。
 シメオンは「彼にとどまっていた」(25節)聖霊の働きによって生涯を通して待ち望んできたことが遂に成就したことを悟った。彼は、幼子イエス・キリストを「腕に抱き」(28節)、「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(30節)と告白し、主なる神をほめたたえた。「抱き」と訳されているギリシア語の動詞(δέχομαι [dechomai])は、「受ける」「取る」という意味で、25節で「待ち望み」と訳されているギリシア語の動詞(προσδέχομαι [prosdechomai])と語幹を同じくする語である。即ち、イスラエルの慰めを「待ち望んだ」シメオンは、幼子イエス・キリストを「抱き」、その慰めを〈受け取った〉のである。
 シメオンは、この幼子が誰か、この幼子を通して主なる神が何をなさるかを見た。母マリアにとってそれは「剣で心を刺し貫かれ」(35節)るような非常に大きな痛みとなる(ヨハネによる福音書19章25節)。しかし、シメオンは、幼子イエス・キリストを通して、主なる神が「万民のために整えてくださった救い」(31節)を見た。
 イエス・キリストは「異邦人を照らす啓示の光」として、「イスラエルの誉れ」として世に来られた(32節)。主なる神が旧約の預言者を通して約束されたメシアの到来は、待ち望んでいた全ての人に対する答えであり、素晴らしい救いの出来事であった。聖霊は私達にそのことを見抜く目を与えて下さる。

(2) アンナによる讃美(36~38節)

 神殿で幼子イエスがメシア(救い主)であることを見抜いた人物がもう一人いた。アンナは、「八十四歳になって」も、「神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」(37節)「女預言者」(36節)であった。
 アンナは、幼子イエス・キリストを見て、「神を賛美し」(38節)た。イスラエルにメシアを遣わして下さった主なる神を大いにほめたたえたのである。シメオンと同様に、アンナも幼子がいかに特別な方であるかを一目で見抜いた。
 その上で、アンナは「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」(38節)。「エルサレムの救い」は、シメオンが待ち望んでいた「イスラエルの慰められる」ことと同じで、メシアの到来を通してのみ成就されるものであった。彼女は幼子イエスイスラエルの救いのために主なる神によって遣わされたメシアであることを人々に告げた。
 イスラエルは民族として屈辱の時代を通り、神の民としての信仰も形ばかりになっていた人が沢山いた。しかし、そのような中にあってシメオンやアンナは、主なる神に希望を置き、主なる神だけを信じ続けた。そのような2人に主なる神は大きな恵みをお与えになった。
 イエス・キリストに出会うことは、人生で最も大きな喜びであり、あらゆる苦しみを喜びに変える。聖霊に満たされて主を待ち望む時、私達はイエス・キリストの愛と恵みを新たに知り、この世にない真の喜びに満ち溢れる。