Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一1章18~25節

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一1章18~25節(新共同訳 新約p.300)

(1) 神の力である十字架の言葉(18~21節)

 パウロは、コリントの教会の信徒が派閥を作り、争っていた原因について、主なる神の知恵を蔑ろにし、この世の知恵を尊んでいたからであると考えた。その上で、彼らが「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合」(10節)うために、十字架につけられたイエス・キリストこそ、主なる神の知恵の核心であると説いた。
「十字架の言葉」(18節)、即ち十字架につけられたイエス・キリストは、信じない人々には「愚か」に思われる。彼らにとって十字架は、喜びも豊かさも栄光も自由も命も幸せも救いも与えることの出来ない単なる刑罰でしかなかった。そのため、イエス・キリストを救い主と信じる人間についても馬鹿げていると考え、嘲った。しかし、彼らは、イエス・キリストの十字架を受け入れなかったが故に主なる神の裁きを受け、「滅んでいく」(18節)ことになる。
 一方、聖霊の働きによって信仰の目が開かれた人にとっては、イエス・キリストの十字架は罪人に救いをもたらす「神の力」(18節)である。イエス・キリストを救い主と信じることによってのみ、人間は滅びから救い出される。主なる神から罪の赦しを受け、義と認められ、神の国に入れられる。
 その上で、パウロは、イザヤ書29章14節を引用し、「神は世の知恵を愚かなものにされた」(20節)と述べている。コリントの教会の各派閥は、自分達こそ最も正しい、最も優れていると考えていた。しかし、主なる神は「知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」(19節)方である。「知恵のある者」であれ、「学者」であれ、「この世の論客」であれ(20節)、「自分の知恵で神を知ることができ」(21節)ず(使徒言行録17章23節)、自らを救うことが出来ず、人間の罪の現実、死の現実の前に無力である。それ故、コリントの教会の信徒達が、この世の知恵に依り頼んで、自分の正しさを主張し合うのは、何の意味も益もないことであった。
 私達を主なる神を知ることに導き、救いに到らせるのは、イエス・キリストだけである。そして、主なる神は「宣教という愚かな手段」、即ちイエス・キリストの十字架を核心とする福音を宣べ伝えることによって、「信じる者を救おうと、お考えになった」(21節)。宣教を通して十字架の福音を受け入れた人だけが救いを受ける。

(2) 神の力、神の知恵であるキリスト(22~25節)

 パウロは世の知恵を追求する人々の代表としてユダヤ人とギリシア人を挙げている。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探」(22節)すとパウロは言う。ユダヤ人はイスラエルの政治的・軍事的覇権を実現してくれるメシアの出現を待ち望んでいた。そのような彼らにとって十字架は躓きの石であった。十字架につけられた人間がメシアであるなど言語道断であった。ギリシア人にとっても「十字架につけられたキリスト」(23節)は、この世の敗北者に過ぎず、そのような人間が救い主であるなど有り得ないことであった。イエス・キリストの十字架は「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(23節)であった。
 にもかかわらず、パウロは「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝え続けた。イエス・キリストこそ、罪人を救う「神の力、神の知恵」(24節)であると確信していたからである。「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが」(24節)、イエス・キリストの十字架を信じる人間に救いは与えられるとパウロは告げ知らせた。
 私達は自分の浅はかな知恵によってイエス・キリストを拒んではいけない。イエス・キリストの十字架がいかに愚かで弱々しく見えても、それは主なる神の知恵であり、力である。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(25節)。イエス・キリストにどこまでも依り頼み、揺るがされることなくイエス・キリストを宣べ伝えよう。