Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一1章26~31節

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一1章26~31節(新共同訳 新約p.300)

(1) 主なる神の御前で誇ることがないために(26~29節)

 私達は自分が持つ知識や業績や地位を誇ろうとする。しかし、主なる神の御前で自分が無に等しい者であることを知る時、自分を誇ることが空しく、恥ずかしくなる。また、どれほど誇っても、私達の心は満たされることがない。高慢と妬みと争いと分派が生じるだけである。
 主なる神は、「世の無学な者」、「世の無力な者」(27節)、「世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者」(28節)を選び、救いへと「召され」る。そのことによって「人間的に見て知恵のある者」、「能力のある者や、家柄のよい者」(26節)、「力ある者」(27節)、「地位のある者」(28節)に「恥をかかせる」(27節)。「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするため」(29節)である。
 救いは、私達の知恵や力、地位、身分などによらず、主なる神の恵みによる。私達はただそれを受けるだけである。自分を誇っていては、主なる神の恵みが遮られ、主なる神を知ることは出来ない。主なる神の素晴らしさに心を満たされ、主なる神を仰いで讃美するところに、この世が与えることの出来ない真の喜びがある。

(2) 誇る者は主を誇れ(30~31節)

 イエス・キリストの外にいた時、パウロは主なる神に敵対して生きていた。当時彼は「ヘブライ人の中のヘブライ人」として、「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者」であった(フィリピの信徒への手紙3章5~6節)。しかし、イエス・キリストに呼ばれ、彼は「罪人の中で最たる者」(テモテへの手紙一1章15節)である自分の姿を発見した。
 私達は自分の行いによって救われることはない。罪人がどれほど努力しても、罪を全く犯さないことも罪を消すことも出来ない。しかし、「キリスト・イエスに結ばれ」(30節)、パウロは、主なる神の御前に存在を変えられ、義を与えられ、聖い者として主なる神と交わりを持つことが出来るようにされた。
 イエス・キリストは全ての信じる者のために「神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」(30節)。私達が主なる神から義と認められるのは、イエス・キリストを信じる信仰による(ローマの信徒への手紙3章22節)。イエス・キリストによって、私達は全ての罪を赦され、主なる神と和解し、イエス・キリストの内にある全ての祝福に与り、主なる神の素晴らしい栄光を仰ぎ見ることが出来る。
 私達の救いと善いものは、全てイエス・キリストにおいて主なる神が恵みとして与えて下さったものである。だから、私達に誇るものがあるとしたら、それは私達を選び、救って下さった主なる神だけである(31節)。明日のことさえ分からず、自分の寿命を僅かでも引き延ばすことすら出来ない自分の弱さを認め(マタイによる福音書6章27節)、イエス・キリストだけを崇め、誇ろう。