Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一2章6~16節

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一2章6~16節(新共同訳 新約p.301)

(1) 神の霊による啓示(6~11節)

 真の知恵は「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト」(2節)が「義と聖と贖いとなられた」(1章30節)ことである。2千年前に十字架につけられたイエス・キリストこそ、主なる神が「わたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられた」(7節)救いの道である。
 しかし、これは「隠されていた、神秘としての神の知恵」(7節)であり、人間の理性や「この世の知恵」(6節)をもって悟ることは出来ない。神の霊が「明らかに示してくださ」(10節)ることによってのみ理解することが出来る。
 聖霊が私達の心を開かれる時、それまで私達の「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」(9節)をイエス・キリストの十字架の内に見ることが出来るようになる(8節)。そして、福音が心に響き、私達の頑なな自我が砕かれる。惨めな罪人である私達一人一人に向けられた主なる神の驚くべき愛、完全なご計画が分かるようになる。
 主なる神は、今日も「御自分を愛する者たち」のために良いものを「準備され」ている(9節)。聖霊と共に生きる者は、主なる神の知恵を悟り、主なる神の御心を悟ることが出来る。

(2) 自然の人、霊の人(12~16節)

 この世には2種類の人間が存在する。「自然の人」(14節)と「霊の人」(15節)である。自然の人は「神の霊に属する事柄」、即ちイエス・キリストの福音を「受け入れ」られない(14節)。イエス・キリストが自分自身を無にして、低くなり、十字架を背負われたことは、彼らにとって「愚かなことであり、理解できない」(14節)ことであった。
 それに対し、霊の人は「神からの霊を受け」(12節)た人間である。霊の人は「神から恵みとして与えられたもの」を聖霊を通して「知るようになった」(12節)。聖霊は、私達の内に住まわれ、私達に真理を悟らせ(ヨハネによる福音書16章13節)、私達に「キリストの思いを抱」(16節)かせる。また、私達を「人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によって」「霊的なことを説明する」者へと変える(13節)。
 キリスト者は「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」(6章19節)とされ、「主の思いを知り、主を教える」(16節)者とされた。にもかかわらず、この世の喧騒と心の欲が私達を惑わす。聖書の言葉と祈りを通して私達にいつも語って下さる聖霊の御声に耳を傾け、この方の導きを受けよう。